エクノモス岬の戦い
エクノモス岬の戦い | |
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戦争:第一次ポエニ戦争 | |
年月日:紀元前256年 | |
場所:シチリア南東部エクノモス岬沖 | |
結果:共和政ローマの圧勝 | |
交戦勢力 | |
共和政ローマ | カルタゴ |
指導者・指揮官 | |
ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス マルクス・アティリウス・レグルス |
ハミルカル 大ハンノ |
戦力 | |
330隻 (140,000人以上) |
350隻 (150,000人以上)[1] |
エクノモス岬の戦い(エクノモスみさきのたたかい、英:Battle of Cape Ecnomus)は紀元前256年にシチリアのエクノモス岬周辺海域(今日のリカータ近海)にて、共和政ローマとカルタゴとの間で行われた、第一次ポエニ戦争での海戦である。両軍それぞれ300隻を超える船団が参加し、各船には約100人の漕手と約150人の戦闘要員が乗船していた。動員人数で、古代地中海世界において最大規模の海戦である。
戦いの背景
[編集]紀元前261年、ローマはシチリア南西に位置するカルタゴの拠点、アグリゲントゥム(アクラガス、現在のアグリジェント)の攻略に成功する。さらにローマは、カルタゴのもつ地中海での制海権を奪取するために、艦隊を新設した。しかしながら、ポエニ戦争開始時のローマには、艦隊どころか本格的な海戦の経験すらない状況であった。一方のカルタゴは、何世紀も海上貿易で富を築いた交易国家であり、海戦の経験も、軍船の数も、ローマに対して圧倒的に有利な状況にあった。その海戦の不利をくつがえすために、ローマは新たに進水した軍船に、特殊な乗船器具コルウス(カラス装置)を装備させていた。このカラス装置で敵船を捉えることにより、乗船隊として軍団を敵船に乗り込ませることを可能にした。これにより、ローマは苦手な海戦を陸戦化させることに成功し、ミラエ沖の海戦などでも勝利を重ね、ついにはカルタゴ本国の北アフリカ(現チュニジア)の侵攻も視野に入る状況となった。
しかし北アフリカへの海外遠征を実行するためには、大規模な軍勢と物資を運ぶための輸送船団も同時に必要となる。その補給線を断つために、カルタゴもシチリア海岸一帯のパトロールを行っていた。そこでローマは、輸送船団が安全に地中海を横断し北アフリカに到着できるよう、護衛艦隊として200隻を超える大型ガレー船を進水させた。そして紀元前256年、2人の執政官ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスとマルクス・アティリウス・レグルスは、北アフリカ侵攻のためこの大艦隊を出発させた。
対するカルタゴも、このローマ船団を北アフリカ上陸前に叩くべく同規模の艦隊を動員した。カルタゴ艦隊はハミルカル(en)[2]と大ハンノが指揮した。
戦い
[編集]ローマ船団は、輸送船団とそれを守る形で3つの戦隊で構成された陣形をとりながら、シチリアの南海岸に沿って航行していた(図参照)。主力の第1戦隊と第2戦隊は、前方くさび状に隊列し、それぞれの戦隊を執政官のウルソ・ロングスとレグルス・アンティリウスが指揮していた。その後方に輸送船団が続き、さらに第3戦隊が後方からの攻撃に備えていた。
対するカルタゴ側の船団は横一線弓状に並んだ陣形をとり、司令官のハミルカはその中央で指揮し、大ハンノは右翼を担当していた。カルタゴ側が戦いの場として想定していた、シチリアの南海岸にあるエクノモス岬で両船団は遭遇した。
両船団が遭遇したと同時に、前方のローマの主力2戦隊が、カルタゴの隊列中央へと突進していった。対してカルタゴの司令官ハミルカルは、第一攻撃目標であったローマの輸送船と主力2戦隊とを引き離すために、わざと後退を始めた。そして横一線弓状に長く展開していたカルタゴ船団の両翼は、ローマ船団の後方に回り込み、左翼が輸送船団に、大ハンノが指揮する右翼が第3戦隊に攻撃を開始した。カルタゴの攻撃は、カラス装置が機能しないよう側面から行われた。この後方の戦況はカルタゴ優位に進み、輸送船団は次第にシチリアの海岸側へと押し込まれていった。
しかし肝心のカルタゴの中央が、ローマ主力の激しい攻撃に耐え切れず敗走し、海戦域から離脱していった。ローマ主力2戦隊はそれを追撃せず、反転して後方の戦況に参加した。執政官ウルソ・ロングス指揮の第1戦隊が、輸送船団を攻撃していたカルタゴの戦隊を左側面から攻撃し、執政官アンティリウス・レグルスが指揮する第2戦隊が、第3戦隊と共に大ハンノが指揮する戦隊に対して攻撃を開始した。
ローマの主力2戦隊が後方の戦いに加わったことにより、残りのカルタゴ船団は包囲され壊滅した。この戦いにより、ローマはカルタゴの軍船の約半分を拿捕あるいは沈没させた。
戦いの後
[編集]この海戦後、ローマ軍は兵士の休息や修理の期間をとるために、いったんシチリアに上陸した。その休息の間に、ローマ軍は拿捕したカルタゴの軍船の船首を、市民への海戦勝利を報告のためにローマ本国へ送った。ミレ海戦の際に始められた儀式に従い、カルタゴの船首はフォロ・ロマーノに掲げられた。2人の執政官のうちウルソ・ロングスは、1年の任期が切れるためにいったん帰還し、本国で凱旋式を行った。準備を整えたローマ軍はもう1人の執政官アンティリウス・レグルスに指揮され、その年のうちに北アフリカへ再出発した。この後の第一次ポエニ戦争の舞台は、カルタゴ本国の北アフリカに移る。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Polybius, I.25-29
- Adrian Goldsworthy, The Fall of Carthage (Cassel)
- W. L. Rodgers, Greek and Roman Naval Warfare (Naval Institute Press, 1937) pp. 278-291