アディスの戦い
| アディスの戦い | |||||||
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| 第一次ポエニ戦争中 | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
| 共和制ローマ | カルタゴ | ||||||
| 指揮官 | |||||||
| マルクス・アティリウス・レグルス | ボスタル ハミルカル ハスドルバル |
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| 戦力 | |||||||
| 歩兵15,000 騎兵500 |
歩兵5,000強 騎兵500 戦象(頭数不明) |
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| 被害者数 | |||||||
| 軽微 | 歩兵3,700、騎兵300、戦象逃亡 | ||||||
アディスの戦いは第一次ポエニ戦争中の紀元前256年に勃発した共和制ローマとカルタゴの戦い。執政官マルクス・アティリウス・レグルスが率いるローマ軍はカルタゴ軍を撃破し、カルタゴに講和を強要した。しかしその講和条件が厳しすぎたため、カルタゴはこれを拒否して戦争は続くこととなった。
背景[編集]
紀元前256年、ローマの執政官ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスおよびマルクス・アティリウス・レグルスが率いるローマ軍2個軍団が、カルタゴの本拠地であるアフリカに上陸した。ローマ軍はカルタゴの東40マイルにあるアスピスを攻め落とした。街の守りを固め、約20,000の奴隷と家畜を郊外から集積した後、ウルソは補給部隊も含む艦隊の大部分を率いてローマに戻るように命令を受けた。15,000の歩兵と500の騎兵はそのままアフリカに残った。
その頃までに、カルタゴはシシリア島からハミルカル将軍率いる5,000の歩兵と500の騎兵を呼び戻し、ボスタル将軍とハスドルバル将軍の支援させた。カルタゴ軍は傭兵、アフリカ軽騎兵、民兵、騎兵および戦象部隊から構成されていた。この混成部隊はカルタゴ南東40マイルにあるアディスの守備につき、ローマ軍を迎え撃った。騎兵と戦象で優越していたにも関わらず、カルタゴ軍はアディス近郊の平野を見下ろす丘の上に布陣した。しかしながら、軍は訓練不足で、また命令系統が統一されておらず、戦力としては十分ではなかった。カルタゴの戦略は防御戦に徹してローマ軍によるこれ以上の破壊を食い止めることであった[1]。
戦闘[編集]
カルタゴ軍に察知されないように、ローマ軍は暗闇にまぎれて丘の周囲に部隊を展開し、2方向から攻撃を開始した。カルタゴ軍はしばらくの間この攻撃に耐え、また片方のローマ軍団を押し返した。このため戦線に隙間ができ、カルタゴ騎兵と戦象は前線から脱出することができた。しかしながら、結局はカルタゴ軍は撃破され壊走した。ローマ軍はしばらくはこれを追尾し、続いてカルタゴ軍野営地の略奪を行った。その後カルタゴ軍の抵抗はなく、ローマ軍はカルタゴ目指して進軍し、チュニスで停止した。
その後[編集]
この敗戦にカルタゴは動揺した。ヌミディアは反乱し、郊外からの難民で市内はあふれかえった。人口の急増のために食料が不足し、疾病の蔓延の可能性もあった。このような危機的状況にも関わらず、実際には援軍を待たずにレグルスの2個軍団だけでカルタゴを陥落させることはほとんど不可能だった。さらに悪いことに、レグルスの執政官の任期切れが迫っており、凱旋将軍となることはできそうにもなかった。このため、講和交渉が開始されたが、レグルスが突きつけた条件はシシリア島、コルシカ、サルジニアの割譲、海軍の解体、賠償金の支払い、さらには従属的な条約の締結という厳しいものであった。しかしながら、カルタゴはこれを拒絶しチュニスの戦いが勃発する。ローマはこれに大敗し、アフリカから撤退することとなった。
評価[編集]
カルタゴ軍が丘の上の防御陣地自体は強固であったが、その自然条件(峡谷やごつごつした岩)のために、カルタゴ軍の騎兵と戦象の優位性は制限されることとなった。結果として、ローマ軍の重装歩兵は閉じ込められた敵軍を打ち破ることができた。
参考資料[編集]
- ^ Battle of Adys 256 BC A Scenario for Rome at War: Hannibal at Bay, by Stephen C. Jackson (2003). Retrieved on December 13, 2008.
- Bagnall, Nigel (1990). The Punic Wars. New York: St. Martin's Press.