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第一次ポエニ戦争

良質な記事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第一次ポエニ戦争
ポエニ戦争中

開戦直前の紀元前264年時点における地中海西部の勢力図:ローマは赤、カルタゴは灰色、シュラクサイは緑で示されている
時紀元前264年 - 紀元前241年
場所地中海、シチリア、北アフリカ、サルディニア、コルシカ
結果 ローマの勝利
領土の
変化
ローマがシュラクサイを除くシチリアとその周辺諸島を併合
衝突した勢力
共和政ローマ カルタゴ
指揮官
アッピウス・クラウディウス・カウデクスなどの各年の執政官 ハンノ(英語版)
ハンニバル・ギスコ
ハンノ
ハミルカル(英語版)
ボオーデス(英語版)
大ハンノ
ハスドルバル(英語版)
ボスタル
クサンティッポス(英語版)
アドヘルバル(英語版)
ハミルカル・バルカ

第一次ポエニ戦争(だいいちじポエニせんそう、英語: First Punic War)は、紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけて当時の地中海西部の大国であった共和制ローマとカルタゴの間で起こった3回のポエニ戦争の内の最初のものである。この戦争は主に地中海のシチリアとその周辺海域、および北アフリカで争われ、双方に莫大な損失をもたらした末にローマの勝利とカルタゴの敗北という結果に終わった。

戦争はシチリアで活動していた傭兵集団のマメルティニから支援要請を受けたことをきっかけとしてシチリアへの進出を決めたローマが紀元前264年に軍隊をシチリアに上陸させたことで始まった。ローマはシチリアで唯一の独立勢力であったシュラクサイと同盟を結び、シチリアにおけるカルタゴの主要な拠点であったアグリゲントゥムを紀元前261年に攻略した。しかし、シチリアにおける戦争は膠着状態となり、同年の末にローマは艦隊の建設に乗り出した。そして紀元前259年から紀元前258年にかけてサルディニアとコルシカを攻撃し、スルキ沖の海戦で圧倒的な勝利を収めたものの、双方の島を支配するには至らなかった。

紀元前256年にはローマ艦隊がエクノモス岬の戦いで勝利し、その後アフリカに上陸して首都のカルタゴに迫った。これに対しカルタゴは和平を願い出たが、ローマの示した条件が非常に厳しいものであったため、カルタゴは戦争の続行を決意した。そして紀元前255年にチュニスの戦いでローマ軍に勝利し、ローマ軍をアフリカから撤退させることに成功した。カルタゴは敵軍の撤退時に起きた海戦には敗れたものの、ローマ艦隊もイタリアに戻る途中で嵐に遭い、ほとんどの船舶と10万人以上に及ぶ兵士を失った。

ローマは迅速に艦隊を再建し、紀元前254年にはシチリアで攻勢に出てパノルムスを攻略しただけでなく、その周辺都市をローマへ帰順させることにも成功した。これに対しカルタゴは紀元前251年にパノルムスの奪回を試みたものの、この試みは失敗に終わった。ローマは紀元前249年にシチリアに残っていたカルタゴの拠点であるリリュバエウムを包囲したが、ドレパナ沖の海戦とフィンティアス沖の海戦(英語版)に敗れて多くの船舶を失う結果となった。その後は数年にわたり膠着状態が続いたが、紀元前243年にローマが艦隊の再建を決意し、紀元前241年にはシチリアの拠点への救援に向かっていたカルタゴ艦隊をアエガテス諸島沖の海戦で打ち破った。カルタゴはこの敗北によってシチリアの西端に残っていた拠点を維持する意志と能力を失い、その結果、将軍のハミルカル・バルカにローマとの和平交渉を命じた。

交渉の結果、両国の間で講和条約が結ばれ、カルタゴはシチリアから撤退し、多額の賠償金を支払い、すべての捕虜を身代金なしでローマへ引き渡すことになった。シチリアはローマの最初の属州となり、多大な努力を傾けて非常に多くの船舶を建造したという経験は、その後の600年にわたるローマの海洋支配の基礎を築くことになった。しかし、ローマとカルタゴのどちらが地中海西部の覇権を握るのかという問題はこの時点では未解決のまま残り、両者の争いは紀元前218年に第二次ポエニ戦争が勃発したことによって再開された。

一次史料

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現代のペロポネソス半島に残されているポリュビオスの石碑

ポエニという言葉はラテン語で「フェニキア人」を意味する Punicus あるいは Poenicus に由来しており、カルタゴ人の祖先がフェニキア人であることを示している[1]。第一次ポエニ戦争のほぼすべての点における主要な情報源は紀元前167年に人質としてローマに送られたギリシア人の歴史家のポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作である[2][3]。ポリュビオスの著作の中にはすでに失われている戦術書などもあるが[4]、今日において知られている著作は、戦争終結からおよそ1世紀後にあたる紀元前146年以降に書かれた『歴史』である[2][5]。ポリュビオスの著作は概ね客観的であり、カルタゴとローマのそれぞれの視点からほぼ中立であると考えられている[6][7]。

カルタゴの文書記録はその首都であるカルタゴとともに紀元前146年に失われたため、ポリュビオスの第一次ポエニ戦争に関する記述は今日では失われているいくつかのギリシア語とラテン語の情報源に基づいている[8]。ポリュビオスは分析的な視点を持つ歴史家であり、可能な限り著作内で触れている出来事の関与者に自ら聞き取りを行った[9][10]。40巻からなる『歴史』のうち、第一次ポエニ戦争について扱っているのは最初の1巻だけである[11]。ポリュビオスの記述の正確性については19世紀末以降多くの議論がなされてきたが、現代におけるほぼ一致した見解は、大抵において記述を額面通りに受け入れることが可能というものであり、現代の情報源におけるこの戦争に関する詳細は、ほぼすべてポリュビオスの記述に対する解釈に基づいている[11][12][13]。現代の歴史家であるアンドリュー・カリーは、「ポリュビオスは極めて信頼性が高いことが分かる」と評価しており[14]、一方でクレイグ・B・チャンピオン(英語版)は、ポリュビオスについて「驚くほど広い見識を持ち、精力的で洞察力のある歴史家」と評している[15]。

後世に著されたこの戦争に関する歴史書は他にも存在するが、それらは断片的、あるいは要約的なものである[3][16]。現代の歴史家は通常さまざまな古代ローマ時代の年代記編者、特に共和制末期の歴史家のリウィウス、シチリア出身のギリシア人の歴史家のディオドロス、そしてより後世のギリシア人作家のアッピアノスやカッシウス・ディオなどの断片的な著作を参照している[17]。古典学者のエイドリアン・ゴールズワーシーは、「ポリュビオスの記述は他のどの記述とも見解が異なっている場合、通常は優先されるべきものである」と述べている[10][注 1]。その他の情報源としては、碑文、考古学的証拠、そしてオリュンピアス(英語版)(三段櫂船の復元船)のような復元による経験的証拠などがある[18]。

2010年以降、シチリアの西海岸沖でローマとカルタゴのものが混在している19隻に及ぶ軍艦の青銅製の衝角が考古学者によって発見されており、同様に10個の青銅製の兜と数百個のアンフォラも発見されている[19][20][21][22]。また、これらの発見された遺物のうち、複数の衝角と7つの兜、そして6つの無傷のアンフォラが大量の破片とともに回収されており[23]、衝角については海底に沈んだ軍艦に取り付けられていたものだと考えられている[24]。これらの発見に関与した考古学者たちは、第一次ポエニ戦争における最後の戦いとなったアエガテス諸島沖の海戦の戦場に関するポリュビオスの記述について、発見された遺物の位置からその記述の正確性を裏付けることができると述べている[25]。その一方でこの海戦に関与した軍艦がすべて五段櫂船であったとするポリュビオスの記述とは異なり、回収された衝角はその寸法から実際にはすべて三段櫂船に取り付けられていたものだと考えられている[22][26]。しかし、考古学者たちは多くのアンフォラから得られた情報を根拠として、この海戦の他の点に関するポリュビオスの記述は正確なものだと考えている。さらにこれらの考古学的成果について、「まさに求められている考古学的記録と歴史的記録の一致」であると強調している[27]。

背景

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カルタゴの海軍基地の跡が写っている航空写真。中央が商業港の跡であり、右下が軍港の跡である。第一次ポエニ戦争以前のカルタゴは西地中海で最も強力な海軍を擁していた。

共和制ローマは第一次ポエニ戦争が始まる1世紀前からイタリア本土南部への拡大を積極的に進めており[28]、紀元前281年から紀元前275年にかけて続いたピュロス戦争の終結を経て南イタリアのギリシア系植民都市(マグナ・グラエキア)がローマに服従した紀元前272年までにアルノ川以南の半島部の征服を完了した[29]。同じ頃、現在のチュニジアに首都を置いていたカルタゴは、イベリア半島南部、北アフリカの沿岸地域の大部分、バレアレス諸島、サルディニア、コルシカ、そしてシチリアの西半分を支配する軍事・商業帝国となっていた[30]。また、カルタゴは紀元前480年に始まったシュラクサイを中心とするシチリアのギリシア系都市国家との間で一連の決着のつかない戦争を戦っていた[31]。そして紀元前264年までにカルタゴとローマは地中海西部における傑出した大国となった[32]。双方の国家は紀元前509年、紀元前348年、および紀元前279年頃に結ばれた正式な同盟を通じて数回にわたり友好関係を確立していた。相互の関係は良好であり、商業面でも強い結びつきがあった。ピュロス戦争ではイタリアでローマ、シチリアでカルタゴと交互に戦っていたエピルス(英語版)の王(ピュロス)に対し、カルタゴはローマ軍に物資を提供するだけでなく、少なくとも1回は海軍を用いてローマ軍を輸送した[33][34]。

紀元前280年代にかつてシュラクサイに雇われていたイタリアの傭兵集団であるマメルティニがシチリアの北東端に位置するメッセネ(現在のメッシーナ)を占領した[35]。その後、対立したシュラクサイの攻撃によって追い詰められたマメルティニは紀元前265年にローマとカルタゴの双方に支援を訴えた。この要請に対してはカルタゴが先に行動を起こし、シュラクサイの王ヒエロン2世にこれ以上行動を起こさないように圧力をかけ、マメルティニに対してはメッセネにカルタゴの駐屯軍を受け入れるように説得した[36]。

ポリュビオスによれば、同じ頃にローマではマメルティニからの支援の要請を受け入れるかどうかでかなりの議論が交わされていた。また、カルタゴはすでにメッセネに守備隊を駐屯させていたため、この要請の受け入れは容易にカルタゴとの戦争につながる可能性があった。ローマ人はそれまでシチリアに関心を示しておらず、正当な所有者から不当に都市を奪った兵士の集団に手を差し伸べようとは考えていなかった。しかし、その一方でローマ人の多くはメッセネがカルタゴの手に留まるならばカルタゴによるシチリアの統一とイタリアへの脅威が現実的なものになると警戒しており、同時にシチリアに足場を築くことで戦略的な優位性と財政的な利益を手にすることができるという期待も抱いていた。結局、議論に行き詰まったローマの元老院は、恐らく執政官のアッピウス・クラウディウス・カウデクスの扇動もあり、紀元前264年にこの問題を民会に提出した。カウデクスは行動を起こすことを支持して豊富な戦利品の見通しを示しつつ投票を働きかけ、最終的に民会はマメルティニの要請の受け入れを採決した[37][38][39][40][注 2]。カウデクスは遠征軍の指揮官に任命され、メッセネにローマの守備隊を駐屯させるという任務とともにシチリアに向かった[47][48][49]。

シチリアのディンナマーレ山(英語版)から望むメッシーナ海峡。右下にはメッシーナの町が見える。ローマ軍は紀元前264年にメッシーナ海峡を渡ってシチリアに上陸し、第一次ポエニ戦争が始まった。

紀元前264年にローマ軍がシチリアに上陸し、戦争が始まった。カルタゴ海軍の優位性にもかかわらず、ローマ軍は不十分な抵抗を受けただけでメッシーナ海峡を横断することに成功した[50]。カウデクスに率いられた2個のローマ軍団はメッセネに向かって進軍したが、同じ頃にメッセネではマメルティニがハンノ(英語版)という名の指揮官に率いられていたカルタゴの守備隊を追放し、都市を占拠していた。しかし、その一方でシュラクサイ軍と追放されたカルタゴ軍の双方によって逆に都市を包囲されるという事態に陥っていた[51][52]。史料からは理由は判然としないものの、最初にシュラクサイ軍が、次いでカルタゴ軍がメッセネの包囲から撤退した[注 3]。その後、ローマ軍は南下してシュラクサイを包囲したが、包囲戦を成功に導けるだけの兵力も補給線もなかったため、すぐに撤退した[54][注 4]。

古典学者のリチャード・マイルズ(英語版)は、カルタゴがシチリアにおける過去2世紀にわたる戦争から学んだことは、シチリアにおいて断固とした行動を取ることは不可能だということだったと述べている[57]。カルタゴのシチリアにおける軍事的な努力は多大な損失と莫大な出費の末に頓挫していた。カルタゴの指導者たちはこの戦争も同じような経過をたどるだろうと予測したが、その一方で海上における圧倒的な優位性を活かして戦争を遠ざけ、繁栄を維持するという見通しを立てることも可能であった[57]。カルタゴはこの海上での優位性を活かすことによって、ローマ軍と野戦で戦う軍隊を編成し、その兵士たちへ支払われる報酬を賄うだけの余裕を作り出し、同様に強固に要塞化された都市に海上から補給を行い、そこを軍事上の防衛拠点として機能させることも可能になると考えていた[58]。リチャード・マイルズは、カルタゴのシチリアに対する所有者であるかのような振る舞いとイタリア南部が支配下に入った後のローマの拡張主義的な態度が交錯し、双方の勢力は意図的というよりも偶発的に戦争に陥ったと指摘している[59]。

軍隊の構成

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陸軍

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2人のローマ軍の歩兵が彫られている紀元前2世紀に制作されたドミティウス・アヘノバルブスの祭壇(英語版)の細部

成人男性のローマ市民には兵役に就く義務があり、大半は歩兵として従軍し、少数のより裕福な市民は騎兵として従軍した。伝統的にローマはそれぞれ4,200人[注 5]の歩兵と300人の騎兵からなる2個のローマ軍団を編成していた。一部の少数の歩兵は投槍で武装した散兵として従軍し、残りは重装歩兵として甲冑、大型の盾、そして刺突用の短剣を装備していた。軍団は3つの隊列に分けられ、前列は2本の投槍を携え、第2、第3の隊列は代わりに突槍を携えていた。また、軍団に属する小部隊も個々の軍団兵も比較的散開した陣形で戦っていた。軍隊は通常、ローマ軍団と同盟市(ソキイ(英語版))から提供される類似した規模と装備を持つ軍団を組み合わせる形で編成された[61]。

一方のカルタゴの陸軍はほぼ常に外国人で構成されており、カルタゴ市民はカルタゴに対する直接的な脅威が及んだ場合にのみ軍隊に加わった。ローマ人による史料はこれらの外国人兵士を軽蔑を込めて「傭兵」と呼んでいるが、ゴールズワーシーはこのような見方を「甚だしく単純化し過ぎ」であると述べている。実際にはカルタゴの外国人兵士たちは多様な取り決めの下で軍務に就いていた。たとえば同盟関係にある都市や王国の正規軍が公的な協定の一環としてカルタゴに派遣される場合もあった[62]。これらの外国人兵士の多くは北アフリカ出身者であり、大きな盾、兜、短剣、および長い突槍を装備した密集隊形の歩兵、投槍を装備した軽装歩兵の散兵、槍を携えた密集隊形の突撃騎兵(重装騎兵としても知られる)、接近戦を避け遠距離から投槍を投げる軽装騎兵の散兵といったいくつかの種類の戦闘要員を供給した[63][64]。一方でヒスパニアとガリアからはともに経験豊富な歩兵が供給されていた。これらの歩兵は鎧を装着していなかったが、猛烈な突撃を見せる一方で戦闘が長引くと離脱するという評判があった[63][65][注 6]。カルタゴ人の歩兵の大部分はファランクスの名で知られる密集した陣形で戦い、通常は2列か3列の隊列を組んでいた[64]。専門の投石兵はバレアレス諸島から集められていた[63][66]。また、当時の北アフリカの森林にはアフリカ原産のマルミミゾウが生息しており、カルタゴ人はこれらの象を頻繁に戦象として活用していた[65][67][注 7]。ただし、これらの戦象が戦闘要員を乗せた櫓を移動させるために使われていたのかどうかは史料上はっきりとしていない[69]。

海軍

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ポエニ戦争期を通じてローマとカルタゴの艦隊が主力としていた軍艦は五段櫂船(Quinquereme)であった[70]。この五段櫂船はガレー船の一種であり[71]、ポリュビオスが「軍艦」全般を指す略語として用いるほど非常にありふれたタイプの軍艦だったが、時には六段櫂船(片舷6人1組)、四段櫂船(片舷4人1組)、あるいは三段櫂船(片舷3人1組)が用いられていた例も史料の中に見られる[72]。一隻の五段櫂船には20人の甲板乗組員と士官、そして280人の漕ぎ手の合計300人が乗船していた[73]。これに加えて通常では定員40人の海兵(船に配属されている兵士)も乗船していたが[74]、戦闘が差し迫っていると考えられる状況下では120人まで増員される場合があった[75][76]。

コルウスと呼ばれるローマの軍艦に備え付けられていた移乗攻撃用の器具

漕ぎ手たちを一つの集団として機能させることは言うまでもなく、戦闘でより複雑な機動作戦を実行するためには長く多大な労力を要する訓練が必要だった[77]。また、船を効果的に操るには漕ぎ手のうち少なくとも半数が何らかの経験を積んでいる必要があった[78]。このため、当初ローマ艦隊は経験豊富なカルタゴ艦隊に対し不利な状況に立たされていた。しかし、ローマ艦隊はカルタゴ艦隊に対抗するため、コルウス(ラテン語でカラスを意味する)と呼ばれる幅1.2メートル、長さ11メートルの架橋を導入した。コルウスには自由端の下側に大きく重量のある釘が取り付けられ、敵船の甲板に突き刺して固定できるように設計されていた[75]。これによって海兵として行動するローマ軍団兵はそれまでの伝統的な戦術であった衝角を用いた体当たり攻撃ではなく移乗攻撃によって敵船を捕獲できるようになった[79]。すべての軍艦には幅60センチメートルの青銅製の刃を3枚組み合わせた最大で重さ270キログラムになる衝角が喫水線に装備されており、これらの衝角はガレー船の船首に隙間なく取り付けることができるようにすべてロストワックス製法によって一つずつ作られ、青銅製の大釘で固定されていた[79][80][81]。

ポエニ戦争に先立つ1世紀の間、海兵の乗船は次第に一般的になり、体当たり攻撃は減少していたが、これは当時採用されるようになっていた大きく重い船が体当たり攻撃に必要な速度と操縦性に欠け、同時により頑丈な構造となったことから体当たり攻撃が成功した場合においてもその効果に乏しくなったためであった。ローマ艦隊のコルウスへの適応はこのような傾向の延長線上にあり、操船技術における当初の不利を補うものでもあった。その一方で船首の重量が増加したことから船の操縦性と堪航能力の両方を損なうことにもなり、荒れた海況ではコルウスは役に立たなくなった[79][82][83]。

シチリアの戦況(紀元前264年–紀元前256年)

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戦争の大半はシチリアとその近海が舞台となった。シチリアの内陸部は丘陵が連なり起伏に富んだ地形をしているために大軍による作戦行動が困難であり、その結果としてこのようなシチリアの地勢は攻撃側より防御側に有利に働いた。陸上における作戦行動は急襲、包囲戦、あるいは阻止攻撃にほぼ限られており、双方の陸上部隊で最も一般的に見られた行動は守備隊の任務の遂行と陸上封鎖の2つであった。23年にわたった第一次ポエニ戦争においてシチリアで本格的な会戦が行われたのは紀元前262年のアグリゲントゥムの戦いと紀元前250年のパノルムスの戦いの2回だけである[84][85]。

ローマでは毎年2人の執政官(コンスル)を選出し、両者に軍を指揮させるのが長年の慣例であった[86]。紀元前263年に選出された2人の執政官は40,000人の軍隊とともにシチリアへ派遣された[87]。シュラクサイは再びローマ軍に包囲されたが、カルタゴの援助を期待することができなかったため、早々にローマと講和条約を結んだ。この和平によってシュラクサイはローマの同盟国となり、銀100タレント[注 8]の賠償金を支払い、そして恐らく最も重要な取り決めとして、シチリアに展開するローマ軍の補給を支援することになった[89]。このようにシュラクサイがローマ側の勢力となった結果、シチリアにおけるカルタゴのいくつかの小規模な属領がローマ側に鞍替えした[58][90]。これに対しカルタゴは戦略上の拠点となる場所としてシチリア南岸の中央部に位置する港湾都市のアグリゲントゥム(現在のアグリジェント)を選んだ。紀元前262年にローマ軍はそのアグリゲントゥムに進軍し、都市を包囲した[57][91]。しかし、ローマ軍はカルタゴ海軍の優位性によって海上を経由した物資輸送を妨げられていたこともあり、補給体制が十分ではなかった。さらに、40,000人にも及ぶ大軍の補給を確保しなければならない状況にも慣れていなかった。収穫期になるとローマ軍の大半が農作物の収穫と食糧探しのために広範囲に散らばったが、これに対しハンニバル・ギスコに率いられたカルタゴ軍が大挙してアグリゲントゥムから出撃し、ローマ軍の不備を突いてその陣地に侵入した。しかし、ローマ軍は兵士を再結集してカルタゴ軍を撃退することに成功し、その後は両軍とも警戒を強めた[92]。

紀元前260年から紀元前256年にかけてのシチリアにおける勢力の変遷と主要な戦闘を示した地図

カルタゴはこれらの出来事の間に兵士を募り、アフリカに集結させた後にシチリアへ送り出した。この軍隊は50,000人の歩兵、6,000人の騎兵、そして60頭の戦象からなり、ハンニバルの息子として記録されているハンノが指揮を執った。また、軍隊の一部にはリグリア人、ケルト人、およびイベリア人も含まれていた[57][93]。包囲が始まってから5か月後にハンノはアグリゲントゥムの救援に向かった[57]。現地に到着したハンノは高地で野営したが、しばらくの間は自軍の訓練と散発的な小競り合いに終始していた。さらに2か月が経ち紀元前261年の春になると、アグリゲントゥムの城内が飢餓に瀕したこともあり、ハンノはローマ軍との決戦を決意した。しかし、カルタゴ軍は戦闘で多大な損失を被って敗れ、ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルスとクィントゥス・マミリウス・ウィトゥルスの両執政官に率いられたローマ軍の追撃に遭ったカルタゴ軍は物資の輸送部隊と戦象を敵軍に捕獲された。その一方でアグリゲントゥムの守備隊はローマ軍が注意を逸らしている隙を突いて同日の夜に都市から脱出した。ローマ軍はその翌日にアグリゲントゥムを占領すると住民を捕らえ、25,000人を奴隷として売り払った[94]。

ポリュビオスによれば、ローマは戦争の目標に関してアグリゲントゥムを陥落させた紀元前261年までにカルタゴ人をシチリアから完全に追放する方針を固めていた[95]。しかし、ローマ側のこの成功の後に戦争は数年にわたり断続的なものになり、それぞれの側に小さな成功はあったものの、戦争の焦点はなかなか定まらなかった。これは後述するようにローマがサルディニアとコルシカに対する最終的に得るもののなかった軍事作戦に乗り出したことに加え、同様に成果をもたらさなかったアフリカへの遠征に多くの資源を割いたためでもあった[96]。

ローマ軍はアグリゲントゥムを占領した後に北方へ進軍し、7か月にわたってミティストラトン(英語版)を包囲したものの、この都市を攻略することはできなかった[84]。紀元前259年になるとローマ軍はシチリアの北岸に位置するテルマエに向かった。しかし軍内で揉め事が起こり、その結果反目したローマ人の部隊とその同盟者の部隊が別々に陣地を構えた。カルタゴ軍を率いていた将軍のハミルカル(英語版)はこの隙に乗じて攻撃に乗り出し、分断されていた陣地の部隊の1つに奇襲を仕掛けて4,000人から6,000人の敵兵を殺害した。さらにはシチリアの中央部に位置するエンナと南東部に位置するカマリナの奪取にも成功した。その結果、危険なほどシュラクサイに近づいたハミルカルはシチリア全土の制圧に迫ったかに見えた[97][98]。しかし、ローマ軍は翌年にエンナの奪還とミティストラトンの攻略に成功し、長期にわたる包囲戦の末にカマリナの奪還にも成功した。さらにローマ軍はパノルムス(現在のパレルモ)にも進軍し、ヒッパナ(英語版)を占領したものの、最終的には撤退を強いられた[99][100]。その後もシチリアでは数年にわたり小規模な襲撃と戦闘が続き、時折小さな町が一方から他方へ離反した[101]。

ローマの艦隊建設

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ギリシアの三段櫂船における3つの異なる櫂と漕ぎ手の位置を示した図

ローマは陸軍を活用することによってシチリアの支配地を拡大させていったが、カルタゴが強固に要塞化された町や都市を守ることに専念するようになったため、戦争は次第に膠着状態となっていった。これらのカルタゴが保持していた町や都市はそのほとんどが海岸沿いに位置しており、そのためローマの優れた陸軍による妨害を阻みつつ海側から軍の支援や補給を受けることができた[102][103]。こうして戦争の焦点は陸上から海域へと移っていったが、それまでローマは海軍を用いた経験がほとんどなく、過去に海軍の必要性を認識した数少ない機会には大抵においてラテン人かギリシア人の同盟市から提供される小規模な海軍の戦隊に頼っていた[57][104][105]。ローマは捕獲に成功したカルタゴの五段櫂船を自らの船の設計図として利用することで紀元前261年末に艦隊の建造に着手した[106][107]。しかし、当時のローマ人は船大工としては未熟だったため、カルタゴの船よりも重い模造船を建造したが、これらの船はカルタゴのものより速度が遅く、操縦性でも劣っていた[108]。

ローマは100隻の五段櫂船と20隻の三段櫂船を建造し[107][109]、基礎訓練を施すために紀元前260年に乗組員をシチリアに派遣した。この年の執政官の1人であるグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナは、最初に到着した17隻の船とともにシチリアの北東の海岸に近いリーパリ諸島に向けて出航し、諸島内の主要港であるリーパラを占領しようとした。カルタゴ艦隊はリーパラからおよそ100キロメートル離れたパノルムスを拠点としており、以前にアグリゲントゥムの守備隊を指揮していた将軍のハンニバル・ギスコによって率いられていた。ハンニバルはローマ艦隊の動きを知るとボオーデス(英語版)を指揮官とする20隻の船をリーパラに派遣し、夜に船が到着するとローマ艦隊を港湾内で捕捉した。ボオーデスの船は攻撃を仕掛けたが、経験の浅いスキピオの兵士たちはこの攻撃にほとんど抵抗することができなかった。一部のローマ軍の兵士はパニックに陥って島内に逃げ込み、執政官自身も捕虜となった。ローマ艦隊の船はほぼ無傷な状態のまますべて敵艦隊に捕獲された[110][111][112]。この出来事の少し後にハンニバルは50隻のカルタゴの船を率いて偵察に赴いたが、その最中に大量の船が集結していたローマ艦隊と遭遇した。ハンニバル自身は敵船から逃れることができたものの、今度は逆にカルタゴ側がほとんどの船を失う結果となった[113]。この短い戦いの後にローマ艦隊は船にコルウスを取り付けるようになった[114][115]。

リーパリ諸島とミュライ(Milazzoと表記されている)の位置関係を示した地図

スキピオの相方の執政官であるガイウス・ドゥイリウスはローマ軍の司令官に着任すると自軍の陸上部隊を艦隊に乗せ、すぐに戦いを求めて出航した。両軍の艦隊はミュライの沖合で遭遇し、ミュライ沖の海戦が始まった。ハンニバルは130隻の船を率いていたが、現代の歴史家のジョン・レーゼンビーはドゥイリウスもほぼ同数の船を率いていたと推測している[116]。カルタゴ艦隊は乗組員の優れた経験に加え、より速く操縦性に優れたガレー船を有していたため、勝利を予期して陣形を崩しつつローマ艦隊に急接近した[117]。最初に向かった30隻のカルタゴの船はコルウスに捕らえられ、ハンニバルの船を含めてローマ艦隊による移乗攻撃を許したが、ハンニバルはスキフ(英語版)(小型船の一種)に乗って脱出した。これを見た残りのカルタゴ艦隊は大きく旋回してローマ艦隊の側面と背後を狙った。ローマ艦隊はこれに反撃し、さらに20隻のカルタゴの船を捕獲した[注 9]。最終的にカルタゴ艦隊の乗組員のうち7,000人が殺され、3,000人が捕虜となった[112]。生き残ったカルタゴ艦隊の船は戦闘を中断し、ローマ艦隊の船よりも高速で移動することができたために戦場から逃れることができた。その後、ドゥイリウスはローマ側が保持していたものの敵軍の包囲下に置かれていたセゲスタを救援するために再び出航した[117]。

カルタゴの艦船は紀元前262年の初頭以降サルディニアとコルシカを拠点としてイタリアの沿岸部を襲撃していた[119]。一方のローマはミュライ沖の海戦の翌年である紀元前259年に同年の執政官のルキウス・コルネリウス・スキピオが艦隊の一部を率いてコルシカのアレリア(英語版)を攻撃し、これを占領した。その後はサルディニアのウルビアを攻撃したものの撃退され[96]、一度は占領したアレリアも失った[120]。紀元前258年にはより強力なローマ艦隊がサルディニア西部のスルキ(英語版)沖で自軍より小規模であったカルタゴ艦隊と交戦し、敵艦隊に大損害を与えた。配下の兵士を見捨ててスルキの町に逃げ込んだカルタゴ艦隊の指揮官のハンニバル・ギスコは、後に自軍の兵士たちに捕らえられて磔刑に処された。しかし、サルディニアとシチリアの双方に対する同時攻勢を支援しようとしていたローマはこの勝利を活用することができず、カルタゴが支配するサルディニアへの攻撃は次第に減少していった[96]。

その後、紀元前257年のある時にローマ艦隊がシチリア北東部のティンダリス(英語版)沖で停泊していたところへカルタゴ艦隊がその存在に気づくことなくばらばらな隊形のまま通り過ぎた。この年の執政官でローマ軍の司令官でもあったガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスは直ちに攻撃を命じ、ティンダリス沖の海戦が始まった。しかし、急な命令であったため、この時ローマ艦隊は混乱した状態のままで出航した。カルタゴ艦隊はこの攻撃に迅速に対処し、船を突進させて敵の先鋒の10隻のうち9隻を沈没させた。これに対しローマ艦隊は主力の軍艦が反撃に出て敵船のうち8隻を沈没させ、10隻を捕獲した。カルタゴ艦隊は戦場から離脱したが、この時もローマ艦隊より速度で勝っていたため、さらなる損害を被ることなく逃げ切ることができた[121]。この戦いの後、ローマ艦隊はリーパリ諸島とマルタを襲撃した[122]。

ローマのアフリカ侵攻

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紀元前256年
1: ローマ軍の上陸とアスピスの占領
2: アディスの戦いでのローマ軍の勝利
3: ローマ軍のチュニス占領
紀元前255年
4: クサンティッポスの率いる大規模な軍隊がカルタゴから出発
5: チュニスの戦いでのカルタゴ軍の勝利
6: ローマ軍のアスピスへの退却とアフリカからの撤退

ローマはミュライとスルキにおける海戦での勝利とシチリアの戦況の行き詰まりに対する失望から戦略の焦点を海域に移し、シチリア海峡を横断して北アフリカのカルタゴの中核地帯へ侵攻することでカルタゴを脅かす計画を立てた[123]。ローマとカルタゴはともに制海権の確立を決意しており、海軍の維持と規模の増強に莫大な資金と人的資源を投入した[124][125]。紀元前256年の初頭に330隻の軍艦と数の不明な輸送船からなるローマ艦隊がこの年の執政官であるマルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスに率いられてローマの外港であるオスティアを出港した[126]。北アフリカの現在のチュニジアを目的地としていたローマ艦隊はその途上のシチリアでおよそ26,000人の軍団兵を選抜して乗船させた[74][127][128]。

カルタゴはローマ側の意図を察知すると敵艦隊を迎え撃つために大ハンノ(既出の2人のハンノとは別人)と以前にテルマエの戦い(英語版)で勝利を収めたハミルカルに率いられた350隻に及ぶすべての軍艦をシチリアの南岸沖に集結させた。最大で290,000人に達した乗組員と海兵を乗せ、合計でおよそ680隻の軍艦が戦ったエクノモス岬の戦いは、参加した戦闘要員の数の上では恐らく史上最大の海戦だったと考えられている[129][130][131]。カルタゴ艦隊は戦闘で先に主導権を握り、自らの優れた操船技術が自軍を優位に導くだろうと期待を抱いた[132][133]。しかし、戦闘は長時間に及んだ混戦の末にカルタゴ艦隊が敗北するという結果に終わった。沈没で失った軍艦はローマ側が24隻だったのに対しカルタゴ側は30隻に達し、さらに64隻のカルタゴの軍艦がローマ側に捕獲された[134][135][136]。

レグルスが率いるローマ軍はこの勝利の後にボン岬半島のアスピス(現在のケリビア(英語版))付近でアフリカに上陸し、カルタゴの田園地帯で略奪を始めた。そして短期間の包囲戦を経てアスピスを占領した[137][138]。ほとんどのローマの船舶はシチリアへ引き返したが、レグルスは15,000人の歩兵と500人の騎兵を率いてアフリカでの軍事作戦を継続し、アディス(英語版)を包囲した[138]。これに対しカルタゴは将軍のハミルカルを5,000人の歩兵と500人の騎兵とともにシチリアから呼び戻した。そしてローマ軍とほぼ同じ規模を持ち、強力な騎兵隊と戦象を擁する部隊をハミルカル、ハスドルバル(英語版)、およびボスタルの3人の将軍の下に集結させて敵軍に差し向けた[139]。カルタゴ軍はアディスに近い丘に陣を敷いたが、対するローマ軍は夜間に行軍し、夜明けに2方向から敵陣に奇襲攻撃を仕掛けた[140]。この早朝の戦いは混戦となった末にカルタゴ軍が破れて敗走するという結果に終わった。カルタゴ軍の損害についての記録は残っていないものの、騎兵隊と戦象はほとんど無傷なまま戦場から逃れたとみられている[141]。

ローマ軍はカルタゴ軍を追跡し、カルタゴから16キロメートルしか離れていないチュニスを占領した。そしてチュニスから襲撃作戦を展開し、カルタゴの近隣地域に壊滅的な被害を与えた。絶望したカルタゴ人は和平を求めたが、レグルスが非常に厳しい条件を提示したためにカルタゴは戦いの続行を決意した[142]。その後、カルタゴは軍の訓練をスパルタ人傭兵の指揮官であるクサンティッポス(英語版)に委ねた[143][144]。そのクサンティッポスは紀元前255年に12,000人の歩兵、4,000人の騎兵、そして100頭の戦象からなる軍隊を率い、チュニスの戦いでローマ軍を打ち破った。ローマ軍のうちおよそ2,000人がアスピスへ退却し、レグルスを含む500人が捕虜となり、残りは殺害された。しかし、クサンティッポスはカルタゴの貴族層の妬みを恐れ、報酬を受け取るとギリシアへ帰って行った[144]。

一方のローマは生存者を退避させるために艦隊を派遣した。この艦隊はヘルマエウム岬(現在のチュニジア北東部のボン岬)沖でカルタゴ艦隊による迎撃を受けたが、戦闘で圧倒的な勝利を収め、114隻の敵船を捕獲した[145][146]。しかし、ローマ艦隊はイタリアに戻る途中で嵐によって壊滅的な打撃を受け、総数464隻の船舶のうち384隻が沈没し(英語版)[注 10]、ローマ人以外のラテン人同盟者が大多数を占めていた100,000人に及ぶ兵士も失われた[145][147][148]。この嵐の際にコルウスの存在が異常なまでにローマの船舶の航行を困難にさせていた可能性があり、この大惨事以降、コルウスが使用されたという記録はない[149]。

シチリアの戦況(紀元前255年–紀元前248年)

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紀元前253年から紀元前251年にかけてのシチリアにおけるローマ軍の侵攻を示した地図

ローマは紀元前255年に前述の嵐によって艦隊の大部分を失ったものの、新たに220隻の船を建造することで迅速に艦隊を再建した[150][151]。紀元前254年にはカルタゴがアグリゲントゥムを攻撃して占領したが、都市の支配を維持することはできないと考え、都市を焼き払い城壁を完全に取り壊した上で撤退した[152][153]。一方のローマは同じ年にシチリアで徹底的な攻勢に乗り出した。この年の2人の執政官に率いられた全艦隊が年初にパノルムスを攻撃し、都市を包囲して封鎖しただけでなく攻城兵器も設置した。ローマ軍はこれらの兵器を使って城壁に裂け目を作り、その裂け目に向かって猛攻撃を加えた。そして城内の外側の町を占領すると、すぐに内側の町にも容赦なく攻撃を加えて降伏させた[注 11]。経済的に余裕のあった14,000人の住民は身代金と引き換えに解放されたものの、残りの13,000人は奴隷として売られた[155]。今やローマはシチリア西部の内陸部の大半を支配下に収め、イエタス(英語版)、ソルントゥム、ペトラ、およびティンダリスの各都市はすべてローマとの和平を受け入れた[155]。

紀元前253年にローマは再びアフリカに焦点を移し、数回に及ぶ襲撃を実行した。しかし、カルタゴの東方の北アフリカ沿岸を襲撃した帰りに再び嵐に見舞われ、艦隊を構成していた220隻の船舶のうち150隻を失った。それでもなおローマは失った船舶を作り直し、艦隊を再建した[150]。翌年の紀元前252年になるとローマは関心をシチリア北西部に移し、艦隊をリリュバエウム(現在のマルサーラ)に向けて派遣した。ローマ軍はその途上でカルタゴ軍が抵抗を続けていたセリヌスとヘラクレア・ミノアを襲撃して焼き払ったが、リリュバエウムの占領には失敗した。その後はパノルムスの陥落によって孤立していたテルマエとリーパラを同年中に占領した。ポリュビオスによれば、ローマ軍は同じ頃にカルタゴがシチリアに送り込んだ戦象を恐れたために紀元前252年から紀元前251年にかけて陸上におけるカルタゴ軍との戦闘を避けていた[156][157]。

紀元前125年に鋳造されたガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスのデナリウス銀貨。裏面は祖先にあたるルキウス・カエキリウス・メテッルスの凱旋式を示唆した図柄となっており、パノルムスの戦いでメテッルスが捕らえた戦象の姿が描かれている[158]。

以前にアフリカでレグルスと対峙したカルタゴの将軍であるハスドルバルは、紀元前251年の夏の終わり頃にローマの2人の執政官のうちの1人が軍隊の半数を率いて冬の間にシチリアを去っていたという情報を聞きつけると、戦象を含む軍隊を率いてパノルムスへ進軍し、その道中で田園地帯を荒らし回った[157][159][160][161]。作物を収穫するために散り散りになっていたローマ軍はこの事態を受けてパノルムスに撤収した。これに対しハスドルバルは戦象を含む自軍の大半を都市の城壁に向かって前進させた。この年の執政官でローマ軍の指揮官であったルキウス・カエキリウス・メテッルスは散兵を送り出してカルタゴ軍を撹乱し、市中に蓄えていた在庫から前線に絶えず投槍を供給し続けた。都市の周辺部の地表はローマ軍が以前にこの都市を包囲した際に築いた土塁で覆われており、戦象の前進を困難にさせていた。さらにカルタゴ軍は飛び道具を浴びせかけられたことで反撃に出ることができず、戦象が背後にいたカルタゴ軍の歩兵を掻き分けて逃走を始めた。メテッルスはタイミングを見計らってカルタゴ軍の左翼側に大規模な部隊を移動させ、混乱した敵軍に突入させた。その結果カルタゴ軍は逃亡に転じ、メテッルスは10頭の戦象を捕らえたものの、追撃の許可は出さなかった[162]。同時代の史料は戦象以外の両軍の損害の規模を伝えていないが、後世の主張の中にはカルタゴ軍の人的損失が20,000人から30,000人に達したとしているものもある。ただし、現代の学者はこの数字をあり得そうもない規模だと考えている[163]。

紀元前250年から紀元前249年にかけてのシチリアにおけるローマ軍の侵攻を示した地図

パノルムスでの勝利に後押しされたローマ軍は紀元前250年にシチリアに残っていたカルタゴの重要な拠点であるリリュバエウムに攻め込んだ。この年の執政官であるガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスと(2度目の選出となった)ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスに率いられた大軍が都市を包囲し、艦隊の再建時に新たに建造された200隻の軍艦で港を封鎖した[164][165]。これに対しカルタゴは封鎖が始まってから間もなく50隻の五段櫂船をシチリアから西へ15キロメートルから40キロメートルに位置するアエガテス諸島の沖合に集結させた。そして一度強い西風が吹くとローマ艦隊が反応する前にリリュバエウムへ素早く入港し、増援部隊と大量の物資を陸揚げした。さらに包囲下では役に立たない騎兵隊を船内に撤収させ、夜間に出港することでローマ艦隊の追撃をかわしつつカルタゴの支配下にあるドレパナ(英語版)(現在のトラーパニ)に向かった[166][167]。一方のローマ軍はリリュバエウムに通じる陸路を土や木材で作った防壁と陣地で封鎖した。さらに港の入口を何度も大量の木製の防鎖で塞ごうとしたが、海が荒れていたためにこの試みはうまくいかなかった[168]。カルタゴの守備隊は高度な訓練を受けた乗組員と経験豊富な水先案内人が乗船している軽量で機動性に優れた五段櫂船の封鎖突破船を用いることで補給体制を維持していた[169]。

翌年の紀元前249年に執政官の1人としてリリュバエウムのローマ軍を指揮していたプブリウス・クラウディウス・プルケルが近郊の都市であるドレパナの港に停泊していたカルタゴ艦隊への攻撃を決断した。ローマ艦隊は奇襲攻撃を仕掛けるべく夜間に出航したが、新規の漕ぎ手が多数を占め、訓練不足だった艦隊は夜が明ける頃には隊形が間伸びしていた。カルタゴ軍の指揮官のアドヘルバル(英語版)は敵艦隊の接近を知ると艦隊を率いて沖に向かい、海岸沿いに展開していたローマ艦隊を外側から包囲した。一日掛かりの激戦となったドレパナ沖の海戦でローマ艦隊は海岸沿いに釘付けにされ、より訓練された乗組員と操縦性に優れた軍艦を擁していたカルタゴ艦隊の前に大敗を喫した。これはカルタゴにとってこの戦争における最大の海戦での勝利であった[170]。カルタゴは海上において攻勢に転じ、フィンティアス沖の海戦(英語版)で再び敵艦隊を圧倒してローマ艦隊をシチリアの海域からほぼ一掃した[171]。ローマが失われた艦隊の本格的な再建に乗り出したのはドレパナ沖での敗戦から7年後のことである[172][173]。一方のカルタゴは財政上の負担を軽減するために艦隊の規模を段階的に縮小させていった[174][注 12]。

戦争の決着と講和条約の締結

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第一次ポエニ戦争期を含む凱旋式を挙行したローマ人の名前が刻まれている凱旋式のファスティの断片

シチリアにおけるカルタゴの支配地は紀元前248年の時点でドレパナとリリュバエウムの2つの都市を残すのみとなっていたが、シチリアの西海岸に位置していたこれらの都市には十分に強力な要塞が築かれており、カルタゴはローマの優れた陸軍による妨害を受けることなく海側から軍の増強や補給を行うことができた[102][177]。紀元前247年以降はハミルカル・バルカ[注 13]がシチリアでカルタゴ軍の指揮を執るようになったが、この時ハミルカルには小規模な軍隊しか与えられず、カルタゴの艦隊も少しずつシチリアから撤退していた。そしてローマとカルタゴの間の戦争行為はカルタゴの戦略に適した陸上での限定的な軍事行動へとその規模を縮小させていった。ハミルカルはドレパナの東の近郊に位置するエリュクスを拠点として諸兵種を混成した部隊によるファビアン戦略(英語版)(正面衝突を避け、小競り合いを繰り返す消耗戦を主体とした戦略)を採用した。このゲリラ戦術によってカルタゴはローマ軍を身動きの取れない状態に留めつつシチリアにおける足場も守ることができた[179][180][181]。

戦争はすでに20年以上が経過しており、両国はともに財政面でも人的資源の面でも疲弊していた[182][183]。カルタゴの財政状況が悪化していたことを示す証拠として、エジプトのプトレマイオス朝に2,000タレントの借款を求めたものの拒否されたという出来事がある[184][185]。一方のローマも破産寸前の状態にあり、海軍とローマ軍団の兵力となる成人男子の市民数も開戦以来17パーセント減少していた[186][187]。ゴールズワーシーはこのようなローマの人的資源の損失を「恐るべきもの」と表現している[188]。

都市の封鎖を海域まで広げない限りドレパナとリリュバエウムを攻略することはできないと考えたローマの元老院は、紀元前243年の後半に新たな艦隊の建造を決定した[189]。しかし、国家の財源が枯渇していたため、元老院はローマで最も裕福な市民に融資を打診して1人1隻、あるいは2人から3人で1隻の船の建造資金を調達し、戦争で勝利した場合にカルタゴへ課すことになる賠償金から返済することにした。その結果、国費から賄われることなくおよそ200隻の大型の軍艦が建造され、装備と乗組員も同様に調達された[190][191][192]。ローマは以前に捕獲した特に優れた品質を持つ封鎖突破船をモデルとして艦隊を建造した[189]。この頃までにローマ人は造船の経験を積んでおり、実績のある船を手本とすることで高品質の五段櫂船を建造することができた[193]。また、重要な変化としてコルウスが放棄された点が挙げられ[189]、これによって船の速度と操縦性は向上したものの、戦術面では変更を余儀なくされた。この変化はカルタゴ艦隊を打ち破るにあたって乗組員が優れた兵士であるよりも優れた水夫であることを要求するものだった[194][195][196]。

現代のエーリチェ(エリュクス山)から望むトラーパニ(ドレパナ)とエーガディ諸島(アエガテス諸島)。アエガテス諸島沖の海戦に敗れたカルタゴはドレパナを含むシチリアの拠点を維持することが困難となり、講和条約の締結とシチリアからの撤退を余儀なくされた。

一方のカルタゴはシチリアへ物資を輸送するための大規模な艦隊を建造した。さらにシチリアに駐留している多くのカルタゴ軍の兵士を乗船させ、海兵として活用する計画も持っていた。しかし、この艦隊は紀元前241年の執政官であるガイウス・ルタティウス・カトゥルスと軍司令官のクィントゥス・ウァレリウス・ファルトに率いられたローマ艦隊にアエガテス諸島沖で迎撃された。この海戦は激しい戦いとなったが、最終的に敵軍より優れた訓練を受けていたローマ艦隊が人員不足で訓練も不足していたカルタゴ艦隊を打ち破った[197][198]。この決定的な勝利の後、ローマ軍はリリュバエウムとドレパナに対する包囲作戦を再開した[199]。その一方でカルタゴの元老院はさらなる艦隊の建造と人員の配備のために必要な資源を割くことに消極的となり[200]、その結果、ハミルカル・バルカにローマとの和平交渉を命じた。しかし、ハミルカル自身は交渉の場には出ず、その役目を部下のギスコ(英語版)に委ねた[200][201]。そして交渉の結果、カルタゴがシチリアとその周辺の島々から撤退し、戦争中に捕らえたすべての捕虜を身代金なしでローマに引き渡し、10年間で3,200タレントの賠償金を支払うという条件の下で講和条約が結ばれ、第一次ポエニ戦争は終結した[197]。

戦争後の経過

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第一次ポエニ戦争終結後の紀元前237年時点における地中海西部の勢力図:ローマは赤、戦争後の(補足条項を含む)講和条約によってカルタゴからローマに割譲された地域はピンク、カルタゴは灰色、シュラクサイは緑で示されている。

23年に及んだこの戦争は古代のローマとギリシアの双方の歴史を通じて最も長期にわたった戦争であり、古代世界の中で最大級の規模の海軍が投入された戦争でもあった[202]。

戦争の余波の中でカルタゴは自国のために戦った外国人部隊へ支払われる報酬の削減を試みたものの、これに反発した外国人部隊が傭兵戦争の名で知られる反乱を起こし、不満を抱いていた多くの地元民の集団もこれに加わった[203][204][205]。カルタゴは多大な困難と数々の残虐行為の末にこの北アフリカの反乱を鎮圧し、紀元前237年には同様にカルタゴに対する反乱が起きていたサルディニアを奪回するための遠征の準備も始めた[206][207]。しかし、カルタゴの遠征の準備に先立って島の原住民によって追放されていたサルディニアの反乱者も逃亡先のイタリアでローマに支援を求めており、ローマがこの要請に応じたことでローマもサルディニアとコルシカを占領するための遠征の準備を始めた[201]。ローマはカルタゴの行動を戦争行為とみなすと宣言してカルタゴに圧力をかけ、和平の条件としてサルディニアの割譲に加え、1,200タレントの追加の賠償金も要求した。第一次ポエニ戦争から続く30年にわたる戦争で弱体化していたカルタゴは再びローマと紛争を起こすよりも妥協する道を選び、ローマ側が提示した条件を以前に結ばれた講和条約の補足条項として受け入れた[1][208][209][注 14]。しかしながら、このようなローマの態度はカルタゴ人の憎しみを買うことになり[208][212]、両国間の関係が恒久的に悪化する原因となった[210]。

その一方で反抗的な外国人部隊とアフリカ人による反乱の鎮圧の際にハミルカル・バルカが主導的な役割を果たしたことで、カルタゴにおけるバルカ家の名声と権力は大きく高まった。そのハミルカルは紀元前237年に多くの古参兵を率いてイベリア半島南部のカルタゴ領(英語版)を拡大するための遠征に出発した。その後の20年にわたりこの地は半独立的なバルカ家の領地となり、ローマへの多額の賠償金の支払いに使われた銀の多くを産出した[213][214]。

ローマにとって第一次ポエニ戦争の終結はイタリア半島を越えたローマの拡大の始まりを告げるものになった[215]。シチリアはプラエトルが統治するローマの最初の属州となり、ローマにとって重要な穀物の供給源となった[1][95]。同様にサルディニアとコルシカを合わせた地域も後にプラエトルの下で属州となり穀物の供給地となったが、現地住民による反抗の封じ込めに対処せざるを得なかったため、少なくとも7年間は両島への強力な軍隊の駐留を強いられた[216][217]。シュラクサイはローマから同盟国の地位を与えられ、ヒエロン2世の存命中は名目上の独立を維持した[218]。そしてこの戦争以後にローマは地中海西部、さらに後には地中海全域を支配する軍事大国となった[219]。ローマは戦争中に1,000隻を超えるガレー船を建造したが、これだけの数の船を建造し、人員を乗せ、訓練し、供給し、そして維持した経験は、その後の600年にわたるローマの海洋支配の基礎を築くことになった[220]。しかし、どちらの国が地中海西部の覇権を握るのかという問題はこの時点では未解決のまま残り、両者の争いは紀元前219年に当時ローマの保護下にあったイベリア半島東部の町であるサグントゥムをカルタゴが包囲し、これをきっかけとして翌紀元前218年に第二次ポエニ戦争が勃発したことによって再開された[213][221]。

脚注

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注釈

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  1. ↑ ポリュビオス以外の史料については、歴史家のベルナール・ミネオが「Principal Literary Sources for the Punic Wars (apart from Polybius)」((ポリュビオスを除く)ポエニ戦争の主要な文献史料)の中で論じている[17]。
  2. ↑ 共和制末期のローマの歴史家であるリウィウスは、前述の3回のローマとカルタゴの条約とは別に、条項の一部でローマとカルタゴが互いにシチリアとイタリアに干渉しないことを定めた紀元前306年の条約の存在を記録している[41]。原著は失われているものの、親カルタゴの立場から第一次ポエニ戦争に関する記録を残している紀元前3世紀の歴史家のフィリヌス(英語版)は、戦争開始にあたってローマ軍がシチリアに上陸した行為をこの相互不可侵の条約に反する行為だったとして非難している[42]。一方でリウィウスは紀元前272年にイタリアのタレントゥムを救援するためにカルタゴが艦隊を派遣した行為も(ローマと同様に)この条約に反していたと指摘している(ただし、現代の歴史家のベルナール・コンベ=ファルヌーは、この出来事の記録について、ローマの開戦を正当化するために創作された話である可能性を指摘している)[43][44]。紀元前306年の条約の存在を認識していなかったポリュビオスは同時代の人々の間で広まっていたとみられるフィリヌスの説明を無知あるいは虚偽の産物であるとして否定しているが、このようなフィリヌスに関するポリュビオスの言及やリウィウスの言及は、当時の人々の間でこの相互不可侵の条約の存在が漠然とでも認識されていたことを間接的に裏付けており、同様にローマの元老院が開戦をためらっていた理由の1つにこの条約の存在があったことを示唆している[45][46]。
  3. ↑ フィリヌスはシュラクサイ軍とカルタゴ軍の撤退について、双方の軍隊はメッセネでローマ軍を破ったが、その後に何故か恐怖に駆られたことで撤退するに至ったと説明している。しかしポリュビオスはこの説明を否定し、ローマ軍がシュラクサイを包囲することができたのはメッセネでローマ軍が勝利したからだと論じている[53]。
  4. ↑ ローマ軍によって解放されて以降のメッセネはローマに忠実な都市であり続けた。戦争終結時にはローマから「正式に独立したローマと同盟を結ぶ自由都市」(civitas libera et foederata) の称号を与えられ、紀元前1世紀の時点においてもローマの同盟市(ソキイ(英語版))としての地位を保ち、条約に基づいてローマ艦隊に船舶を派遣していた[55][56]。また、マメルティニの動向についてはその中の人物の1人であったミナトゥス・クリウスという名の人物がエンテラの町の再建のために第一次ポエニ戦争中に多額の寄付を行ったという記録が銘板の形で残されており、その後メッセネはローマから課される穀物の10分の1税を免除された[55]。
  5. ↑ 状況によっては5,000人まで増員することも可能であった[60]。
  6. ↑ ヒスパニアの兵士は重い投槍を使用していたが、これは後にローマ軍がピルムとして採用することになった[63]。
  7. ↑ これらの戦象の肩の高さは通常で2.5メートル程度であり、より大きなアフリカゾウと混同しないように注意する必要がある[68]。
  8. ↑ 100タレントは、およそ2,600キログラムの銀に相当する[88]。
  9. ↑ このカルタゴ艦隊の損害に関する数値はポリュビオスの記録からの引用である。他の古代の史料では30隻か31隻が捕獲され、13隻か14隻が沈没したとされている[118]。
  10. ↑ この数字はG・K・ティップスによる推計であり、ローマ艦隊によって捕獲された114隻のカルタゴの船舶がすべてローマ艦隊とともに航行していたと仮定している[145]。
  11. ↑ ジョン・レーゼンビーは、当時2つに分かれていたパノルムスの町のうち、外側の町は現在のカッサロ地区に位置し、内側の町は現在のカルサ(英語版)地区に位置していたと説明している[154]。
  12. ↑ ベルナール・コンベ=ファルヌーは、この成功によって制海権を手にしながらカルタゴがパノルムスの奪回やローマとの和平を目指さなかったのは奇妙であり、ローマに兵力を回復するための時間をみすみす与えることになったと指摘している[175]。その一方で同時期のカルタゴでは大ハンノを中心としてローマ軍のアフリカ侵攻以来混乱していた北アフリカの秩序の回復と同地での領土の拡大を目指す政策が打ち出されており、このような政策の転換がシチリアでの対ローマ戦争の停滞につながっていた可能性がある[175][176]。
  13. ↑ ハミルカル・バルカはハンニバル・バルカの父親である[178]。
  14. ↑ ポリュビオスはこれらのローマの行動について、「あらゆる正義に反する」と批判している[210]。また、この補足条項の中でコルシカについては言及されなかったものの、結局はサルディニアと同様にローマによって占領された[211]。

出典

[編集]
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参考文献

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日本語文献

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外国語文献

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