Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈

Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈[編集]

Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方において、「必要があれば(----頁より引用)とページ数も記す。」と記載されています。これはページ数の記載は書き加えようとする側(以下執筆者)の任意であるという意味だと思いますが、執筆者が出典を提示しなかった箇所に{{要出典}}テンプレートが除去を求める側(以下閲覧者)によって貼られ、執筆者が(要出典を解消するために)出典を提示するケースの場合、執筆者の任意でページ数の記載の有無を判断していいのでしょうか。また、執筆者は「(ページ数の)記載は不要」、閲覧者は「記載は必要」の意見で対立している場合はどちらの意見を優先すべきでしょうか。--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月20日 (月) 14:54 (UTC)[返信]

なんでそこで方針文書の解釈問題になるのかがわからない。執筆者はうだうだ言う前にページ数を付け加えればいいだけの話だし、記載が必要だと思う人はさっさとその出典に当たって自分でページ数を付け加えればいい(わからなければ執筆者に聞けばいい。それで答えなければ除去すればいい)。それを方針文書の解釈とかでいつまでも喧嘩するようなら、両者ともにWikipedia:ルールすべてを無視しなさいの「熟読期間」が必要なのではないでしょうか。--122.29.83.144 2009年7月20日 (月) 15:22 (UTC)[返信]
いや、参考文献名を記しておけば、とりあえず削除はないでしょ。どうしても頁数を入れたいのであれば、参考文献を見てテンプレートを貼った人間が探せばよい。そもそも参考文献もよく探せないような専門知識のない人間が、その項目自体を触ることおかしいし。--118.105.238.165 2009年7月20日 (月) 20:44 (UTC)[返信]
すいません、参考文献らしき名前が挙がってるけれども実はそれは虚偽、というケースを想定して書いてました。「わざわざページ数を書く必要はない」という主張をする理由はわかるけれど、「参考文献として挙がってるけれど具体的には何ページですか?」という質問に(ページ数を書くことに同意するかは別として)答えられない、というのは出典が虚偽である以外に理由が浮かばないもので。虚偽でないならば書籍名だけであっても除去の理由にはならないというのは同意です。
後半2文には全面的に同意。草取り趣味は結構だけど、自分の知らん分野を触るときは慎重になるべき。草取りと称して知らない分野の記事を荒らしまわる輩は最悪。--122.29.83.144 2009年7月20日 (月) 22:08 (UTC)[返信]
正直申し上げて、自分自身がその参考文献を探して読もうという気が全く無い人間が、ページ数の記載を要求する動機が意味不明なのですよ。参考文献をあたったうえで「この文献はこういう理由で該当箇所がどこなのか探す事は難しいので、ページ数を記載すべきである」というのであれば、まったくもって正当な理由ですが。そういう理由も説明できず、ただページ数を書けという要求は横暴、わがまま、独善以外の何物でもなく、そのような要求がまかり通る先例を作るのは好ましく無いと考えます。ですから、ページ数を記載するのはまったくもって容易な事ですが、あえて断固拒否させて頂いております。--PATMAN 2009年7月20日 (月) 22:25 (UTC)[返信]

「自分自身がその参考文献を探して読もうという気が全く無い人間が、ページ数の記載を要求する動機が意味不明なのですよ。」ってそりゃぁ一方的なな、、喧嘩をふっかけて様子見して楽しんでるんかい?あんたがこの場で断固拒否なんて言う価値は全くない。

誰かがチェックできるようになってたほうが記事の信頼性はあがるってのは正論だし、自分にチェックする気がなくても誰かがチェックできるようにするってのはウィキペディアの基本じゃないのか?完璧な記事を書く奴以外は黙ってろ、読み手は黙ってろって姿勢はあまりにも横暴すぎだ。そもそも出典をこじつけて勝手に論理を組み立ててる奴が屁理屈をゴネ始めたときには、どこを出典としたのか明示せよっていわせなきゃ話にならん。 「記載は不要」「記載は必要」で対立するってことは本当は出典なんて偽者なんだろって疑われて当然だわな。--海驢(あしか) 2009年7月21日 (火) 10:36 (UTC)[返信]

ページ数の記載が無くても、チェックは容易であるからこそ、必要ないと述べているのです。それでもあえてページ数の記載が必要であるというのなら、原典を確認した上で「こういう理由でページ数の記載が無い限りはチェックは困難である」あるいは、チェックが容易以外の別の理由においてのページ数の記載の必要性について述べるべきです。正直言って、喧嘩をふっかけているのはどちらでしょうか? こちらは原典を示しているにもかかわらず、原典を読みもせずに要求する側ではないでしょうか? 議論を先に進めたいのなら、せめて原典に目を通していただきたいところですが。--PATMAN 2009年7月21日 (火) 11:33 (UTC)[返信]
アマゾンや近隣の古本屋でで見つからない書籍を探す手間まで考えた事あるんかね、てか書く時に他の書籍と情報のクロスチェックしたの?序でに言えば、過去に出所不明の情報に要出典を貼られて暴れた上で、後処理(出典の追加や記述自体の削除)も他人任せな人間の『タイトル書いただけで情報源を提示しました、他の必要な情報(出版年、版元、掲載ページ数等)は催促されても書きません』を信用する程俺はお人好しじゃないよ--まるゆ 2009年7月21日 (火) 12:50 (UTC)[返信]
PATMANさんの仰る「自分自身がその参考文献を探して読もうという気が全く無い人間が、ページ数の記載を要求する動機が意味不明なのですよ。」との意見には強く疑問を抱きます。だいいち出典の概念に「チェックの難易度」を持ち出す時点で、PATMANさんが“出典”とは何なのか理解しているか疑問を抱きます。
PATMANさんは終始閲覧者側に原点の閲覧を求めていますが、「自分が所持している文献は全ての閲覧者が確認できる」わけではなく、横暴な行為であると言わざるを得ません。その記述を残したいのならば、Wikipedia:検証可能性#方針の「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」 に則り、それを望む側(PATMANさん自身)が記載しなければならないのです。今回のような「一部の記述」の正当化をするための“出典”(脚注)とは、すなわちその「記述」に対する“証拠”なのです。PATMANさんの行為は、例えると裁判で弁護士(執筆側)が中途半端な証拠を持ちだして、検察(閲覧側)に向かって「それで不満なら残りは自分で調べろ。異議を言うのはそれからだ。」などと言っているようなもので、そのような“証拠”が証拠物件として採用されるわけがありません。
また、そもそも出典が求められたという事は、ページ数の記載の「必要が」あるという段階に達しているという事です。それをルールの「必要があれば」を根拠に記載を拒否するのは出典を明確にするために作成されたルールであるWikipedia:出典を明記する精神に反するためそのような解釈は曲解であると言わざるを得ません。--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月21日 (火) 14:37 (UTC)[返信]
出典それ自体を探すのが困難である事は認めます。ですがそれであるなら、なおの事ページ数を示せという主張が無意味という事にしかなりませんが。原典が見つけられないのなら、何のためのページ数掲載なのでしょうか? 全く持って意味不明なのですよ。--PATMAN 2009年7月21日 (火) 14:46 (UTC)[返信]
Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive07に「検証可能性」さえあれば「検証容易性」は必ずしも必要ない、という類の議論があります。ButuCCさんはここで指摘されているのと同質の根本的な勘違いをしておられるのではなかろうか。--122.29.83.144 2009年7月21日 (火) 15:26 (UTC)[返信]
  • PATMANさんへ
無意味ではありません。まず第一に論文などで剽窃などの疑惑を回避するために出典・脚注・引用を細かに記載するように、ページ数の掲載はその記述の正確性や正当性、質の向上に繋がります。論文を見る人が必ずしもその文献を読むとは限らないし、絶版などで文献が確認できない場合もあるのになぜ記載するのか。それは(論文の「書式」として決められているという点もありますが)出典を正確に記述する場合とそうでない場合では、その脚注を見た時の信用度(印象)に大きな差があるからです(後述する第二の理由はこの印象が大きく影響します)。我々は出典をもとに文章を推敲してWikipediaの記事を作成しますが、逆に外部で論文などを作成する時にWikipediaの記述を引用する場合もでてきます(Wikipediaが百科事典を目指す以上、Wikipediaが“出典”となるのは目標でもあります)。我々が出典を元にWikipediaを執筆する時に出典の記述の検証(出典元にもよるが、その記述が二次資料以降の場合or評価など主観が含まれる場合)を行わないのと同様に、Wikipediaを“出典”とした場合は必ずしもその出典の記述を確認してから引用するとは限らず、出典の体裁から信用していいか否か判断される場合が多いからです。
第二に持ちうる情報は極力提示しておくことによって(上で122.29.83.144さんが「草取りと称して知らない分野の記事を荒らしまわる輩は最悪」と仰っているような){{要出典}}が過剰に貼り付けられる事によって発生する編集合戦を未然に防ぐ(減らす)事が出来ます。出典の正確な記述は荒らしに対する予防となり、テンプレートが貼られた場合も(出典の虚偽指摘などが無い限りテンプレートを外しても問題ないので)円滑な対処が出来ます。
  • 122.29.83.144さんへ
該当ページを確認しました。仰っている議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/Archive07#バックナンバー入手不可能の雑誌から得た検証可能か?の事と思われますが、若干ケースが異なります。(特定のユーザーおよび記事を挙げるのはあまり気が進みませんが、当件の発端を説明するために記載します。)
その議論の後半で「ご自分がよほど詳しいと自認する分野以外での検証可能性論議は避けた方がよい」「自分の無知を棚に上げて他者の編集成果を台無しにする削除厨--(中略)--悪影響を受けてしまった実例と思います。」とありますが、当件の発端となったF-16_(戦闘機)にもいわゆる「削除厨」が蔓延したため、その影響からまるゆさん(少なくとも門外漢の方ではありません)は記事の執筆にあたってきめ細かな出典の提示が迫られ(参考)記事の正確性が極端に求められる状態になっていました。その状態でPATMANさんが執筆(しかも既に記載されている内容と対立している内容)され、出典の提示を求めたのが今回の発端なのです。こう書くと、F-16は特殊な例、ケースバイケース、記事の状況によっては細かく記載する必要が無いように感じられるかも知れませんが、前述のように予め細かな出典を掲示することで「削除厨」の蔓延を阻止する一助となります。--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月21日 (火) 17:49 (UTC)[返信]
(PATMANさんへ)「原典が見つけられないのなら、何のためのページ数掲載なのでしょうか?」とのご疑問に関しまして。理由は書籍名とページ数があれば国立国会図書館の複写サービス[1]を利用して、そのページを入手できるからだと思いますよ。ページ数が判らなければ、どこの図書館・古書店にあるか分からない原典を探し回らねばならず非現実的です。原典が手に入らないからこそ、ページ数が必要なのだと思いますよ。--110.1.191.253 2009年7月21日 (火) 19:19 (UTC)[返信]
なんか、頁数があれば、「偽」ではないはずだ、という信仰が垣間見えるんだけれども。頁数を書いてたって、嘘書く人はでっち上げるだろうし、所詮それを疑う人が確認するしか真偽のほどは分からない。
それと「原典を探し回らねばならず非現実的」と上にあるけれど、百科事典の記述をしようとする者は、探して回るぐらいの労力は当然かと思う。研究者であれば、市場に出回っている印刷物が本当に誤字脱字、あるいは省略・捏造がないのかアメリカの公文書館や中国の档案館など実際に調べに行くことを怠らない。そこまでのレベルを求めないにしても、参考文献を確認する程度のことが出来ない、あるいは怠るようであれば、その項目については編集する資格がなく、Reader Onlyでいるしかないのではないかな。百科事典の項目を編集するというのは、それなりの知識・労力・時間・金を使用するのだという自覚があって然るべきかと思う。ちと厳しい言い方だけれども。--118.105.227.91 2009年7月21日 (火) 21:34 (UTC)[返信]
インデント戻す。
どっちもどっちな気がする。というのは、ある章なり項目なりを書いているとき、普通であれば手元に何らかの資料があるはずで、しかもそれを実際に見ているはずで、であるならばページ数も一目瞭然なわけで。その情報を書き加えるのに面倒なことといえば<ref></ref>と書くこと、文献名とページを書くことくらい。それで文句言われなくなるんだったら端っからやっておきなよ、と思う。ここからちょっと蛇足。自分は、といえば、例えば技術資料とかを参考にしてると、英語だったりすることはよくあって、そういう場合翻訳作業が間に挟まるから、面倒くさくなってページ数を出さずに書いたりすることはある(参考文献として技術書なり仕様書なりへのリンクにする)けれど、日本語の資料を元に書いた項目であれば、ページ数の記述は普通にやってる。もし、それで大量に出典を張るようなことになってしまったら、それはそれで可読性を下げるので、その章の始めに「この章は○○のpXXX-pXXYを参考文献として記述する」とかやってまとめたりする(どっかにそういうことをやったような気がしてたら、自分のところのサブページだった。リリースしてないんじゃ意味ない…)。ここまで蛇足。
逆に、書き手としては、検証は非常にありがたいのだけども、できれば参考文献に挙げた図書くらいは読んでおいてほしいなあという思いはある(一時期「参考文献読んでないならその項目に触れてくれるな」ってのを外部で言っていたこともあるくらい)。「出典を細かく示してくれ」って提言するのは非常にありがたい(少なくとも削除されるよりは)。ただ、「出典のページを明記する」なんて瑣末なことよりも、直接手を下してくれる人との方がやっぱりやりやすいし、直接手を下せるってことは、執筆者が増える=記事の質が大幅に上がるということでもあるわけで。その期待にすべてを込めてしまうのは執筆者の甘えなんだろうけど、そういう風に動いてくれる人が増えてくれればいいなあとは思うわけでした。だからまあ、どっちもどっちというか、ちょっと上を見てくれたらいいんじゃないかと(居丈高で申し訳ないけど)思うわけです。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年7月22日 (水) 02:41 (UTC)[返信]
記事の内容や文献入手の容易さによっては最初からこと細かくページ数まで記載することが絶対条件である必要はないと思います。
ですが、疑義が提出されたのならページ数の記載はしてほしい。何百ページもある文献を何度読んでもそれに該当する記述が見つからず、結論として「参考文献は実在するし入手も困難ではないけれど、それをもとに執筆したという内容が虚偽(もしくは独自研究)」というケースを経験したことがあります。ややスケールの落ちる話なのは承知の上ですが、そういう例もあるんだということで。
「確かにそこに記述がある」と断言して執筆するなら具体的な箇所を挙げることも容易なはずで、逆に記述がないと主張する側に証明を求めるなら悪魔の証明になりかねないケースだってある。
「まずは提示された参考文献を当たる」「提示の要請があればページ数を記載する」というのは、互いに歩み寄れる範囲じゃないんでしょうか。--藤之 2009年7月22日 (水) 08:56 (UTC)[返信]
「何百ページもある文献を何度読んでもそれに該当する記述が見つからず」という状況であれば、確かにページ数の記載は必要でしょう。ですが、そもそも今回の件の発端となった事柄については、参考文献で該当する箇所は、その文献の中でたった7ページに過ぎず、該当する記述を探す事は容易にできます。ですから私はそういう事を述べて「ページ数の記載の必要はなく、それを執拗に求める事の意味が不明である」と申し上げているのです。ところがButuCC氏は執拗にページ数の記載を(さしたる理由の提示も無く)要求した挙句、とうとうこのような行為に出たというのが、今回の顛末です。--PATMAN 2009年7月22日 (水) 11:31 (UTC)[返信]
PATMANさん、同じ論を繰り返さないで下さい。まずは、貴方の「ページ数の掲載の意味」の質問に答えた私と110.1.191.253さんのコメントに対する返答をお願いします。その上で「さしたる理由の提示も無く」と述べて下さい。
私としてはIsh-kaさんの意見、および藤之さんの『ページ数まで記載することが絶対条件である必要はないと思います。ですが、疑義が提出されたのならページ数の記載はしてほしい。』『「まずは提示された参考文献を当たる」「提示の要請があればページ数を記載する」というのは、互いに歩み寄れる範囲じゃないんでしょうか。』という意見は(折衷案として)適当な意見だと思います。確かにいきすぎた出典の要求は良くないと思います。しかし、110.1.191.253さんが仰るようにページ数を記載することによって、閲覧者側の「まずは提示された参考文献を当たる」がクリアしやすくなるため、資料によってはページ数を記載した方がいい場合もあります。よって、ページ数の記載は(上記で否定してしまいましたが、それを撤回して)ケースバイケース、つまり『資料入手が(絶版などで)困難な場合』『「削除厨」の蔓延などで荒れやすいページ(ただし冒頭にその旨の注意を載せるべき)』といった場合は、ページ数の記載は重要であると考えますがどうでしょうか。--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月22日 (水) 16:56 (UTC)[返信]
◆逆に聞きたい。出典でページまでを書き出さない理由って何ですかと。上でも書いたけど、「突っ込みいれるなら出典読んでからにしやがれ」ってのは執筆者の甘えなんですよ。「ページ数まで書いてくれ」って要請には「記述の質を向上させる」というきちんとした理由がある。繰り返します。「gdgd言わねえでお前がつけろ(超大意)」というのは執筆者の甘えです。最初からつけときゃ突っ込まれることもない。そこにページの多少は関係ないでしょう(該当する記事がたとえ雑誌の見開き半ページであったとしても、ページ数を書けばいい)。
なんというか、「文献を読んでくれ」っていうのは自分がきちんと不足なくポインタを示してから言わないと、単に「意地張ってる」と思われるか、人によっては虚偽を疑ったって仕方のないレベルの話にしかなりません。こんなことで意地張ったって仕方ないでしょう。もっとも、図書館などを利用した場合、「書いたときには出典があったけれど、(返却したから)今はない」ということはありえる。この場合は、きちんとその旨を説明した上で協力を求めるなりしたほうがはるかに建設的だと思う。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)ish-ka 2009年7月23日 (木) 01:30 (UTC)[返信]

思ったことですけど「出典無い記事は即削除」っていうルールは無しにしませんか?それこそ「出典つけるのがバカらしいレベルの『常識』」について「出典無いから削除」とか、「評論・エッセイ風に見えるから削除」とかあまりにもくだらない行為が横行しすぎてます。無論、ウィキペディア上でそういう個人的エッセイが横行しているの承知しているのですが、「出典が挙げられているならそれを確認する」「いきなり削除は禁止。要出典を張ってから最低で一週間を見てから削除。」「要出典を貼る際にはその記述をした執筆者に通知する」などの義務を負わせても良いのではないでしょうか。上記の件とは直接にはリンクしないでしょうが。らりた 2009年7月23日 (木) 12:18 (UTC)[返信]

付け加えると「『「突っ込みいれるなら出典読んでからにしやがれ」ってのは執筆者の甘え』という主張は「要出典をつける側の甘え」と思います。少なくともその分野の最低限度の知識が無い人は要出典をつける資格無しとして欲しいです。無論、そんなことを言っても通らないでしょうが。らりた 2009年7月23日 (木) 12:21 (UTC)[返信]
◆思ったことですけど、「出典無い記事は即削除」ってルール徹底しませんか?それこそ「個人的エッセイ」が横行している現状、あまりにもくだらない記事や編集が横行しすぎです。……って言われたらどうしますか。ご自分で「個人的エッセイが横行している」現状を挙げながら、ある片方だけに偏った言い方をするのはちょっと違うのではないですか?「分野の最低限度の知識が無い人は要出典をつける資格無し」と、片方を義務とするなら、「細かく出典を提示しない人は編集する資格無し」と、もう片方も義務としなければ、記事の質を担保できなくなるとは思いませんか?
これは義務とかルールとかの話ではなく、「記述する側は細かく記述しておくこと」「要出典を求める側は、すくなくとも提示されている資料には目を通しておくこと」の「努力目標」の話でしょう。通る通らないの話以前に、お互いこれを守っていればよいだけの話でしょう。どちらかがそれをせずに論争になるのであれば、個別に話をすべきです。その労力を惜しむためのルールなど(論じる部分から)必要性をまったく感じません。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions) 2009年7月23日 (木) 15:11 (UTC)[返信]

基本的に出典を把握している加筆者はページ数など出典に関わる問いかけに応じるべきだとは思いますが、加筆者にも事情があってすぐには応じられないこともあるでしょう。・・・図書館が遠いとか、本を売ってしまったとか、その他諸々・・・。ページ数がわからなくても少なくとも出典を特定できる状態にあるのであれば、とりあえず半年とか一年とか猶予期間をおいてから判断しても遅くはないと思います。それから、端から見ると出典云々以前にまずは感情的対立を何とかするのが先決ではないかと。些細なボタンの掛け違いから感情的な対立に発展して肝心の記事本文がグダグダになってしまうのはお互い望むところではないはずです。--Ray go 2009年7月24日 (金) 12:23 (UTC)[返信]

ページ数の記述まで逐一求められた場合の実例[編集]

とりあえず「実例」を示してみます。例として上げるのはエジンコート (戦艦)の項目です(これは私が記事内容のほとんどを記述しましたので、編集するに大変やりやすかったので)。つまり今回の問題は、[2]ではとてもじゃないけど不足しているので、[3]のように書け、と要求するのは、正当かどうかという事です。このような要求は正当なのでしょうか? 皆様のご意見を伺いたいと思います。—以上の署名の無いコメントは、PATMAN会話履歴)さんが[2009年7月24日 (金) 13:38]に投稿したものです(ButuCC+Mtpによる付記)。

よくわからないのが「ページ数の掲載はその記述の正確性や正当性、質の向上に繋がります」というご主張です。これは、方針のどこかに書かれているのでしょうか。記述の正確さや質の高さは、出典とされる情報源とその使い方次第であり、単に出典があるから、あるいは掲載ページや行数まで書いてあるからその記述が正確で質が高い、ということにはなりません。言い換えれば、どれだけ詳しい脚注があろうが、的外れだったり、文脈にふさわしくない内容、過大あるいは過小な評価、誇張や虚偽などは除去またはより適切な記述に書き換えられるべきです。
また、私が知る限り、出典の示し方はいくつかあって固定されていません。ページ数がわかっているなら出した方が親切かもしれませんが、それは義務ではありません。妥当性が高く議論の余地がないと考えられる記述や、短い記事の多くをひとつの文献に拠っている場合などに、煩瑣を避ける意味で個々の出典やページ数を省略することは、執筆上ありうる選択肢のひとつです。ここは「井戸端」なので一般論ですが、出典について執筆者と建設的な議論をしたいなら、「同じ土俵に立て」(出典を読んでいる、あるいは別の信頼できる情報源を持っていて、対案を示せる)という執筆者の意向は無視しないのが礼儀にかなった態度だと思います。少なくとも、安易なタグ貼りは安易なタグ除去を誘発するのであり、それ単独ではなんら記事内容の改善に結びつかない点で両者は相似形です。--みっち 2009年7月24日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
◆どちらの版もPATMANさんの編集で、「誰かが誰かにこうするように求めた」わけじゃないと思うんですけど。それとも最初に提示された版から次に提示された版までの間に、どこかで誰かがPATMANさんに対してこうするように求めたということ?ちょっと状況がつかめません。
とりあえず、ここでは「どちらの版がよりよいのか」について意見を述べます。俺は、後者の版が良いと思います。理由は簡単。検証する際に、それがより容易であるからです。ただし、無条件でよいというわけでなくて、この版であれば、例えば参考文献に列挙した文献の後に、「この記事の執筆に辺り、特にpXXXからpXXYまでを参考とした」などと書いて、個別につけた出典を取り除きます(ここで言うなら世界の艦船増刊第30集 イギリス戦艦史(海人社) P82世界の艦船増刊第30集 イギリス戦艦史(海人社) P159あたりが、纏められる対象となる)。他に、<ref name>を使う方法もある(これだと、記事の記述が細切れになってしまうという弊害は解消されませんが、出典頻度によっては使い分けすることで効果的に出典を示せると考えています)。これでさらにタグをつけるようであれば、「参考文献は読んだ?ページも示してあるよ?」と言うでしょう。
で、一応。とりあえず俺自身は、ここまでで「ページ数の掲載はその記述の正確性や正当性、質の向上に繋がります」という主張はしてないです。ただし、「ページ数が記載されていることによって、その記述が正確であるか・適切であるかなどを検証することは容易になる」と考えています。こうして検証された記事は、「質の高い記事」と言えると思います。「ページ数がわかっているなら出した方が親切かもしれ」ないのならばやろうよ、と言っている(その行為によって、安易なタグ貼りを「させない」と言うこともできるわけだし。安易にタグが張れないのならば、当然、タグはがしも発生しえない)。「同じ土俵に立て」も、このセクションの俺の最初の書き込みで言及していますしね。偏ることなく、どちらの視点も考えてみてもらうっていうのは、すっごい重要だと思うのです。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions) 2009年7月24日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
私は現状では前述のように「ケースバイケース」であると考えているので状況によって返答を変えます。(下の例に行くほどページ含む細かな出典の記載が要求されます)
  • (除外対象)明らかに荒らしとされるタグ貼り(いわゆる「削除厨」)の場合
タグを剥がします。ただし、それが荒らしであると即断せずに、相手の会話ページで質問するなど、慎重に判断するべきです。(Wikipedia:安易に荒らしと呼ばない
  • 執筆者がタグが無い個所に出典を書き込んだ場合
※上記「エジンコート (戦艦)」の例
この時点では「必要あれば」の裁量は執筆者の判断に任せられているので書き込むかどうかは任意です。
  • 執筆者が既にタグが有る個所に出典を書き込んだ場合
上記同様この場合も任意ですが、要出典が貼られている事情を考えると正確な記載が求められていると考えるべきです。
  • 執筆者が書き込んだ場所に要出典が貼られ、タグを外すために出典をのせた場合
自己回収する場合、虚偽が疑われやすいので、自身の潔白を示すためと、再タグ貼りを防止するためにもなるべく乗せるべきです。
  • 他の方が執筆者に詳細な出典の明記を要請した場合
※発端となった「F-16 (戦闘機)」はこれと上下の3例のいずれか
上でRay goさんが仰るように、『基本的に出典を把握している加筆者はページ数など出典に関わる問いかけに応じるべきだとは思います』。一応誰かが「必要」としているということなので、可能な限り出典の記載に協力するべきです。もちろんそれが横暴な要求の場合もあるので一概には言えませんが、上記削除厨の話同様に、安易に横暴であると判断すべきではありません(Wikipedia:善意にとる)。
  • 他の方が提示した出典と矛盾して対立した場合
※みっちさんが言及した(出典を読んでいる、あるいは別の信頼できる情報源を持っていて、対案を示せる)状態
(その「他の方」が出典要請する場合があるので、基本的に上と一緒ですが)両論併記が出来ないケースの場合、議論などで他の方から自分の出典の支持を得るためにも正確であるべきです。両論併記する場合も、(前述の「印象」と関連して)他の出典と比べて信頼度を下げないためにも細かくあるべきです。
  • (全ての状態)+資料入手が困難な出典の場合
110.1.191.253さんが仰るように、閲覧者側に原典を読ませるためにもページ記載は必要です。
  • (全ての状態)+既にタグ貼り合戦が発生して荒れている場合
前述の通り、荒れる原因を作らないためにも詳細な記載をするべきです。
>「ページ数の掲載はその記述の正確性や正当性、質の向上に繋がります」というご主張です。これは、方針のどこかに書かれているのでしょうか。
これは「ページ数記載の理由」に対する私が考える「メリット」であって、方針文書ではありません(その記述自体が偽装、虚偽である可能性もあるという主張は自分も妥当な意見だと思っていますが、だからと言って書かないよりは信頼性があると思います。)--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月24日 (金) 17:19 (UTC)[返信]
確かに「偏ることなく、どちらの視点も考えてみてもらうっていうのは、すっごい重要」です。では確認ですが、お二方は、方針ではなく個人的な主張に基づき、親切を強要し、主張を他者に押し付けているということですか? --みっち 2009年7月25日 (土) 00:02 (UTC)[返信]
◆ちょっと時間がないので簡潔に。「方針ではなく個人的な主張に基づき、親切を強要し、主張を他者に押し付けている」という見方がもうすでに一方的です。しかも俺はそれを強要したことはない(そうすべきだとは言っているし、俺自身は実際にそうする。ただし、俺から他者にそれをお願いすることはないが、他者Aが他者Bにこの主張をしていたとしても、俺はその立場も理解するといっているだけ)。検証可能性(と検証容易性も考慮する)と出典に関する解釈の問題と考えています。どこかに規定されなければ、そうした解釈もゆるされざる、ということでしょうか。
そうした出典が「強要」されることは確かにありますが、程度問題でしょう。冒頭でも言いましたが、正直言って、「親切を強要し、主張を他者に押し付けている」という視点は良いものとは思えません。後ろ向きです。
まずは以上をもって回答とします。一部を回答として読むのではなく(このくらいの文章ですから)「全体をもってひとつの回答」です(多分個人的にここはちょっと強調しておく)。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年7月25日 (土) 01:40 (UTC)[返信]
ish-kaさんのご意見を「どちらの視点も考えてみてもらう」ために確認したまでです。私の意見は最初に述べたとおりで、ish-kaさんとそれほど大きく違わないことはご自身がお認めでしょう。ここで同じような主張を何度も繰り返すことが強要や押し付けに当たるとは思われないようで残念です。しかし、あなたがいわれるほど、一方的で後ろ向きな指摘ではないと思いますよ。ということで、ここはお開きにしませんか? こんなところでぶつかり合っていても、記事の改善にはなりません。--みっち 2009年7月25日 (土) 02:42 (UTC)[返信]
記事によっては加筆者が交錯して詳細な出典が特に望まれることもあるとは思いますが、それはあくまでもローカルな努力目標であってウィキペディア全体のルールとして規定されているものではないでしょう。情報源を特定できる出典が示されれば少なくとも加筆者として最低限の義務は果たされたと思うんですよね。ページ数まで示すのは加筆者の好意でしょう。特別な事情があって詳細な出典情報が望まれる場合、直接出典をあたっている加筆者に尋ねるのが効率的ではありますから、情報源の提供をお願いするという図式になるはずです。他人に道を尋ねるときに「地元の地理に詳しい住民は道を教えるのが当然だ」という態度で接することはないでしょうし、尋ねられた人が「お前の態度が気に入らないから教えない」と返すのも大人げないでしょう。お互いルールだけで物事を解決しようとしていませんか?--Ray go 2009年7月25日 (土) 07:17 (UTC)[返信]

先の書き込みでは署名忘れ失礼しました。さて、「実例」についてですが…

  • 上の実例の前者では出典の明示が不十分として、記事内容をごっそり削除する行為に出る事を、どう思われるでしょうか?
  • 上の実例の前者では出典の明示が不十分として、要出典タグを貼付ける行為をどう思われるでしょうか?

この2点についてご意見を賜りたいのですが。--PATMAN 2009年7月25日 (土) 09:21 (UTC)[返信]

記事によってケースバイケースではないでしょうか。少なくとも出典がきっちりとメンテナンスされている記事であれば、出典の明示が不十分な部分はメンテナンスしている人の判断で整理されてもやむを得ないとは思います。出典があるから何でも書けるというわけではないでしょう。記事の(量ではなく)質を高めようと努めている他の加筆者の立場も察してあげて欲しい。お互いそういう配慮をしなければ共同作業は成り立ちませんよ。--Ray go 2009年7月25日 (土) 12:17 (UTC)[返信]
みっちさんが仰る通り同じ論の繰り返しは強要と受け止められる可能性があるため、質問の返答にとどめます。強要の意思はありません。
  • まずPATMANさんの質問に対する返答から。
前述の通りケースバイケースです。一律に考えるべきではありません。また、Ray goさんが仰る通りそのページの“整備状況”も考慮するべきです。
  • 「記事内容をごっそり削除する行為」
出典要求なくいきなり削除するのはさすがに不当な行為だと思います。(ただし、ノートなどでアナウンスがあったり、他の出典と矛盾(上記「他の方が提示した出典と矛盾して対立した場合」)などの正当な理由が、要約欄など他者が確認できる方法でアナウンスされている場合はその限りではありません)ただ、すぐさまリバートするとrv合戦になりかねないので、なるべく相手に意思確認をした方がいいでしょう。
  • 「要出典タグを貼付ける行為」
基本的に上記「執筆者が書き込んだ場所に要出典が貼られ、タグを外すために出典をのせた場合」のケースです。タグが貼られただけではそれが不当であるか即断できません。
  • みっちさんとRay goさんが述べた「主観」「ルール」について。
まず、今回のコメントはPATMANさんの「皆様のご意見を伺いたい」に対するコメント、つまり始めから主観を前提としたコメントであるため、「(繰り返し含め)個人的な主張」となって仕方がないのではと思います。また、ルール上に「必要あれば」以外に記載がない時点でこの議論は(ルールをどう解釈するか、という点でルール云々の話にもなりますが)各人がどう考えているか、つまり主観論が基本となるのではないでしょうか。(私が「Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈」などといったルールについて議論するような体裁にしてしまったのがそもそもの間違いだったかもしれません。)--ButuCC+Mtp «AVI/I-90» 2009年7月25日 (土) 12:59 (UTC)[返信]
◆インデントはここであってるかな…?みっちさんとはたぶん根本的に大きな齟齬にはなってないと思うし、そんなことでぶつかったって仕方ないと思うので言及しません。PATMANさんの質問にだけ回答します。そういう状況になったときに俺が取るだろうリアクションです。
前者のケースで記事内容をごっそり削除する行為…差し戻し。やったユーザのノートページに「出典挙げてんだから見てから削除しろや(超大意)」と言う。
前者のケースで要出典を貼り付ける行為
これは程度問題。もし、後者と同じ位置に要出典が張られているなら、全部差し戻して記事のノートで対話。意図を聞く。その上で、どうやって纏めるかを相談。それを拒否するのならば荒らしみなす場合もありうる。
ある程度整理された形で要出典が張られていた(例えば、後者のケースでも要出典が張られていた位置に要出典が張られていた)場合は、差し戻さずに記事のノートで会話。意図を聞く。その上で、その出典が本当に必要かどうかを話し合う。この場合、出せるならすぐに出しちゃう。
というところでしょうか。「ページ数まで出典を出すべきだ」と言ってきた割に、対応が同じだと思われるかもしれませんね。ただ、「出せ」と言う手段として前ふたつ(削除と大量の要出典)は大雑把過ぎる。本当に出させようと思ったら、それぐらいの労力(出典に目を通さないと、一番最後のような編集はできませんからね)かけないときちんと出てこないだろうということです。
一応もう一度書いておきます。「記述する側は、検証容易性の話もあるし、対した労力にならないのだから、ページ数を書いたほうがよい」「要出典などを張る側、検証する側は、より高い精度で記事の不備であろう部分を指摘するため、ひいてはスムーズな出典付けのために、出されている出典には目を通したほうがよいし、目を通す努力はするべきだ(目を通す努力をする、と言う部分だけは義務だと思う。たとえば、「どの部分にかいてありますかね?」と聞くとかね)」というのが、俺が執筆者/検証者に回った場合のスタンスです(この二つの文章はセットです。どちらかを抜き出した瞬間、バランスが崩れてしまう)。これが絶対だとはいわないし、他の誰かもそうするべきだともいいません。そういう考えもあるということだけを示せればよいです。
結構ここに対して書いてしまったと思うし、自分のなかでの結論は示しているので、これ以上ここに書くことはしないほうがいいかもと思っています。声が大きい(同じ人が何回も投稿するという行為)という状況はあんまり好ましくないと思うし。俺に対してなんかあれば俺のノートでやったほうがいいかな。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions) 2009年7月25日 (土) 16:16 (UTC)[返信]
エジンコート (戦艦)の例で言えば、前者でもまずはOKだと思います。後者へ成長させる要求というのは当然要求者にも向けられているわけですよね?出典ページ数の不明機だけを理由に「記事内容をごっそり削除する行為」はダメかと。
一般論として、まずはページ数が無くとも出典があるのであれば検証可能性の必要条件は満たされ{{要出典}}タグは無効化されるのではないかと思います。
仮に該当記事に肯定的な立場から、出典書名以上に更に詳細なページ記載の必要性を感じるのであれば、まさに検証可能性を生かして検証した結果からページ数を記載すればよいのではないかと思います。それを元の執筆者に強要することは出来ないんじゃないかと思います。
逆に、該当記事に疑義があって否定的立場の場合、つまり該当記事が別の出典や事実と衝突している場合、あるいは出典先を検証して出典引用ミスや出典不適当が確認されるならば特筆性等についてノートでの個別議論になり、存続・削除・両論併記などの結論がもたらされるのではないかと思います。(まさにそんなケースで今悩んでいます)
ただ、ふと思いましたが、この先「デタラメな出典ページ数荒らし」みたいなのが出た場合に、再検証の労力は莫大なものになり、何らかの対処が必要になるのかも知れませんね。--Yasumi 2009年7月26日 (日) 01:53 (UTC)[返信]
欲を言えば、「要出典」タグ以外に「出典詳細明示」タグが欲しい所です。出典の明示が不十分であると思われる時に貼付ける。で、要出典タグが貼付けられても一向に出典の明示が無いなら削除されるのは当然ですが、出典詳細明示タグの場合は削除はしないと。いつまでも出典詳細明示タグが貼付けられている記事は「信頼性に欠ける」と看做されるのは仕方ないが、削除まではしないという事で、よくないですか?--PATMAN 2009年7月26日 (日) 03:27 (UTC)[返信]
Template:正確性(節貼り付け方式)との併用(あるいはTemplate:要出典の4.3に示されている他のテンプレートとの併用)で事足りるような気がします。単に出典の明示を求めるだけの場合は{{要出典}}、その出典の明示を求める際に「正しくなさそうだ」という疑問のある場合には{{正確性}}を貼り付けた上で{{要出典}}、といったように。後者が貼り付けられた状態で長期に出典が明示されないということは「正しくなさそうな疑問のある記述で、出典が長期に明示されない」ということですから、編集除去されても仕方がないでしょう。長期に出典が明示されない場合に編集除去されるのが妥当だと考えられる理由に応じて、Template:要出典の4.3に示されているテンプレートを使い分けるという感じで。--NISYAN
補記:Template:要検証({{未検証}}のピンポイントタイプのテンプレート)という試作段階のまま2年経過しているテンプレートもあるようですね。2009年7月26日 (日) 04:54 (UTC) 紹介追加 --NISYAN 2009年7月26日 (日) 05:01 (UTC)[返信]
参考文献は挙げてあるが対応をしっかりつけて欲しい、というときにはTemplate:参照方法というものがあります。--貿易風 2009年7月26日 (日) 05:19 (UTC)[返信]
なるほど。ただ要出典タグに替えるには、サイズが大きいような。要出典に替えるのに相応しいタグが欲しいです。それこそ記事全体に貼るというより、特定箇所に貼るような。--PATMAN 2009年7月26日 (日) 06:48 (UTC)[返信]
Template:疑問点とかは使えるかもしれません。「デタラメな出典ページ数」にはTemplate:出典無効でしょうか。後は(ここかどこかで)合意の後、作成とか。作成に使えるテンプレート(Template:Fix)もあるようです。本来であれば、ピンポイントタイプのテンプレートはCategory:インラインテンプレートに集約されていてほしいところですが、現状適切にカテゴライズされていない様子です(これから判る範囲で保守しようと思います)。後、話は遡りますが、en版にはページ番号を求める{{Page number}}というのもあるようですね。--NISYAN 2009年7月26日 (日) 07:51 (UTC)[返信]
いや直感で、初動でデタラメなページを打たれても不明なので対処できずに困ったことになるのではないかな?と思った次第です。--Yasumi 2009年7月27日 (月) 10:46 (UTC)[返信]
そこは仕方がないような気がしますけどね、様々な人が参加するというWikipediaのスタイル上。出典があろうがなかろうが、Wikipedia上の記述の正当性はそのまま鵜呑みにはできず、最終は(記事分野における、少なくとも出典に書かれていることを読み解ける程度の基礎知識および)出典にあたらないと判らないわけで。それっぽい出典が記載されているなら、後はその出典にあたって、Wikipediaに記載されている内容に該当する記述が出典内に存在するかどうかを確認するくらいしかないでしょうと思います。あと、出典を確認するにあたって、出典付けた人に出典の入手元や該当ページを聞くということも(出典付与者がIPさんやウィキブレイク者などでない限り)可能だと思います(うまく聞き出すような聞き方や、うまい受け答え方っていうのをお互いに考えれば、聞き出すのがそんなに極端に難しいことはないと信じたいところです)。--NISYAN 2009年7月28日 (火) 00:34 (UTC)[返信]
私も『「出典詳細明示」タグ』の必要性を感じます。Template:信頼性要検証(廃止意見あり)、Template:疑問点Template:要検証(試作段階)、Template:出典無効で対応する事も出来ない事はないと思いますが、これらのテンプレートは要出典とはまた別のニュアンスが含まれるので、PATMANさんが仰る「要出典タグが貼付けられても一向に出典の明示が無いなら削除されるのは当然ですが、出典詳細明示タグの場合は削除はしない」といった、「要出典」とほぼ同じ意味で、かつ削除対応の有無などの“程度の差”が表現できるタグ形式テンプレートを作成すべきかもしれません。(蛇足:「削除厨」は記述の削除を目的にタグ荒らしをするので、削除されないタグは荒らしに使用されることは少ないと思います。そういう意味で、真摯に出典を求める方と荒らしの混同を予防できるかもしれません。)--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2009年7月31日 (金) 15:33 (UTC)[返信]
井戸端の別の場所に挙げましたが、私の認識では、そもそも{{要出典}}自体が純粋に出典を求めるタグであって、{{要出典}}に示される除去猶予期間(タグ説明文章中でいうところの「利用者による議論や出典提示の機会を与えるために」のこと)経過後にその記述を除去するのが妥当であるかどうかの判断は{{要出典}}とは別の場所にある、と思っています。なので《これらのテンプレートは要出典とはまた別のニュアンスが含まれる》云々といった部分についてのButuCCさんの発言については、私はあまり理解できていません。「別のニュアンス」という部分がまさに「編集除去されるのが妥当であるかどうかを判断する材料足り得る部分」であって、そういった別の「ニュアンス」が含まれていない要出典タグの長期間付与自体を根拠に編集除去を妥当と見なすこと自体に疑問を感じる、という意味です。
まあ、ここでの主題を考えると「{{要出典}}=出典を求め、出典が得られない場合に除去、{{出典詳細明示}}=純粋に出典を求める」と解釈するか「{{要出典}}=純粋に出典を求める、{{要出典、除去予告}}=出典を求め、出典が得られない場合に除去」と解釈するかの違いだけですので、別タグを設けるかどうかという論点で考えれば確かに価値ありかもしれませんね。ただ、井戸端に新たに出した内容から「編集除去を予定した要出典付与時には、必ず別タグか要約欄かノート等で除去が妥当とされる理由の提示が必要」という流れにでもなれば、そういうタグの新設は不要かもしれません。--NISYAN 2009年8月2日 (日) 02:10 (UTC) リンク先を井戸端差分から井戸端サブページに変更--NISYAN 2009年8月2日 (日) 11:23 (UTC)[返信]
「編集除去されるのが妥当であるかどうかを判断する材料足り得る」を判断基準とするというのは同じ考えです。「別のニュアンス」というのは、単純にその事を示そうと思っても上記テンプレートは(テンプレートの説明を見て)それとプラスアルファの別の意味を含むように感じたからです。また、「要約欄かノート等で除去が妥当とされる理由の提示」を必要とするならばTemplate:疑問点を使用すれば良い事になるので、新設する必要がないかもしれません。(私はどちらかというと必要寄り)--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2009年8月2日 (日) 13:50 (UTC)[返信]
私は必要性を感じません。現行タグ、テンプレでどうにでもなると思います。要出典タグを貼った人が削除までは考えていなかった(削除するかどうかは別問題として捉えていた)としても、少なくとも出典について何らかの疑念があるからタグを貼るわけで、ならば他の誰かが「これは削除相当だ」と削除しちゃう可能性もあるわけですよね。だったら最初から、削除もありえますよって意味を含んでおいたほうが素直だし、方針を鑑みてもそのような注意であるべきなのでは。ページ数だとか細かい理由を説明したいなら、要出典タグのチップテキストなりノートなり(加えて、記事にお知らせテンプレートを貼るなり)で充分間に合うでしょう。ページ数が違うだけで文献は同じなのに、いちいち出典項目が別記になると表示がくどいのでページ数は書かないことにした、って人もいるのだろうし、<ref name>をページ数についても拡張できればいいんですけどねえ。nameと一緒にpage指定すればまとめられるって感じの。そうすりゃエジンコート (戦艦)なら十四項目の出典が三項目で済むし、F-16ならもっと縮小される。--矢側 2009年8月3日 (月) 14:40 (UTC)[返信]
Wikipedia:出典を明記する」に出典を示す方法はいくつか載っているわけですが、分野によって出典提示方法の適不適が異なるんだろうなと思います。「数冊の本をベースにして、同じ本から複数ページの出典を記すことになるタイプの記事」(専門書が複数冊出ているような分野の、専門用語を解説した記事とかはこんな感じになりそう)と、「多数の雑誌をベースにして、同じ雑誌からは1ページずつしか出典を持ってこないようなタイプの記事」(芸能人物記事とかはそんな感じになりそう)とでは適した出典の示し方が違うというか。
エジンコート (戦艦)は前者ですが、Template:Harvを用いたハーバード方式のがあってるのかもしれません。エジンコート (戦艦)を例にすると、出典となる文献3つをTemplate:Citationを使って定義しておき、出典を提示したい箇所にはTemplate:Harvを用いて先の文献とページ数を指定する。すると(著者名、発刊年、p.xxx)のような形で本文に差し込まれ、「著者名、発刊年」の部分がTemplate:Citationで定義した文献情報へのリンクとなる、という方法のようです。
そういえば、私の関わったものだとファジングとかが前者のタイプですが、同じ書物名でページ数だけ違うという出典を随所につけるのが面倒になって「参考文献に示してあるからいいや」と、参考文献ベースの出典は全て省略したことを思い出しました。「こんな出典の示し方がありますよ」レベルじゃなく、「こういうタイプの記事だとこういう出典の示し方がよい」レベルのことが、「Wikipedia:出典を明記する」に書かれているとよいのかもしれません、と雑感。--NISYAN 2009年8月3日 (月) 17:02 (UTC)[返信]