Wikipedia:井戸端/subj/歴史に関する記事の出典に一般向けの出版物を使うことの是非

歴史に関する記事の出典に一般向けの出版物を使うことの是非[編集]

自分は戦国期の毛利氏を中心に書かせて頂くことが多いのですが、その際に一般の歴史解説本(学者ではなく作家などが書いた本など)を出典に使うことが多くあります。

この度、作家の書いた書籍はあくまでも読み物であり、参考書籍としては相応しくないとして出典が丸ごと削除されました。当該者の可変IPの方が私の会話ページにメッセージを寄せられたので、一般人向けの本が出典に相応しくないという根拠はWP:Vのどこにあるのかと尋ねたのですが、現時点で回答はありません。そのまま、別のページで同じことが繰り返されたので(ただし可変IP編集者なので同一人物ではない可能性もありますが)、問題があるならいきなり削除せずに「信頼性要検証」とするべきではと反論したところ、それ以降は出典除去はせずに信頼性要検証テンプレートを貼られるようになりました。ただ、研究書や論文を使用しないと真正性を担保できないので安っぽい俗書は使用しないでと主張して、記述の内容に関わらず「著者が作家(=学者では無い)の本」という理由で一律にテンプレートを貼っているように思われます(例1例2)。

つきましては、専門家以外が執筆した歴史本・歴史雑誌の記事などは、無条件に除去(ないし一律に信頼性要検証)を付されるものなのか(及び、その場合はガイドラインや方針のどの部分が根拠になるのか)をお尋ねさせてください。これまで私自身としては「専門家の出している著書がベストな出典」とは思いますが、「一般書も全否定されているわけではないので、(センセーショナルな主張やトンデモな論説で無ければ)WP:RSに普通程度の注意を払いつつベターな出典としては使える」というスタンスでした。--TT mk2会話2019年10月11日 (金) 12:55 (UTC)[返信]

  • コメント Wikipedia:信頼できる情報源#歴史Wikipedia:信頼できる情報源#優れた情報源を見つけるには、いくらか手間がいるかもしれない
  • 歴史の記事って本当に難しいですよね。私もいくつか書いてきましたが、最近では吾妻四郎助光
  • 調べれば調べるほど、最終的に「一次史料」にあたるほかなくなっていきます。
  • 作者が「専門家」であろうとなかろうと、原則的には「帰属化」しながら書くほかないなあ、と感じます。
  • お示しの例の場合、たとえば「毛利弘元と側室の相合大方の子として誕生」というのは、何を根拠に作者は断定しているのか、そこを追求したくなる。現代の人物ならともかく、江戸時代以前の人物の場合には、こうした記述(というか全部の記述)が、「ガチの史実」なのか「・・・と伝わる」という話なのか、あるいは「こうであろう」という推測なのか、注意深く取り扱う必要があります。
  • きちんとした専門家の著作ならば、「史料Aにこうあり、史料Bにこうあるので、こうだろうと推定できる」みたいに根拠が示されているものです。で、今の私だったら、そのことを記事にも書きます(本文に書くか、注釈とするかは全体を見渡しながら決めます)。
  • もしくは、歴史学者のMは『MX』のなかで「こうである」と推定している、みたいにする。Mについては、できる限り、「S大学教授(日本史)」のような肩書を添えて、その意見の専門性・信頼性を推定する手がかりも併記する。理想は、学者Nが「M教授がこう述べている」と二次言及しているのが望ましい。
  • あとは、「こういう話が通俗的によく知られている(史実とは言っていない)」のようなことをきちんと分離しながら書く。
  • ただ、こうした課程はすごく手間と時間がかかります。「専門家以外が執筆した」文献は、そうした課程をすっ飛ばして、あたかも史実であるかのように書かれていることがあり、イージーに「解答」が得られるので安易に飛びつきたくなるのですが、Wikipediaの記事づくりには取り扱い注意と思います。取っ掛かりとして参考にする程度にしておいて、堅い文献で裏を取りに行くというのが、あるべき態度と思います。--柒月例祭会話2019年10月11日 (金) 13:24 (UTC)[返信]
  • 柒月例祭さんが挙げているガイドラインに加えて、WP:V#何を信頼できる情報源とするか「一般的に良い情報源とされるのは、事実・法的解釈・証拠・主張などの点が専門家によって検証・分析されているものです(中略)とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です。しかしこれらの分野でも、それだけが信頼できる情報源ではありません。それが特に主流の権威的出版物だと信頼されている場合は使用することができます」というのがありますね。歴史分野では「学術的で査読を経た出版物」(例えば、『日本史研究』に載った論文)あるいは「特に主流の権威的出版物」(例えば、専門家が書いた岩波新書・中公新書)のみが出典として利用することが認められているものだと思います。また、例えば、WP:RS#事実「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです」WP:RS#情報源学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。」いったあたりの文言でしょうか。
  • 新紀元社で吉田龍司さんがお書きになっている本は、「特に主流の権威的出版物」とも言えず、出典としては適切とは言えなさそうです。また、大抵の場合、探せばより良い出典が見つかると思います。一律に除去は乱暴かもしれませんがが、信頼性要検証の添付は問題ないと考えます(より良いのは専門家の書いた出典に置き換えて、記述に問題があれば修正していくことだとは思いますが。なお、似たような論点を[[Wikipedia:コメント依頼/おいしい豚肉]、利用者‐会話:Quark Logoとその関連ノートページで議論しています)。
  • 例えば作家の塩野七生さんの書かれた『ローマ人の物語』は非常に面白くて、私も大ファンなのですが、塩野さんが事実を書いていると主張しているのに反し、専門家の目から見ると非常に多くの誤りや根拠のない断定があるそうです(ローマ人の物語#批判)。作家の書いた書籍はウィキペディアの出典としては向かないと言えるでしょう。--伊佐坂安物会話/履歴2019年10月12日 (土) 02:01 (UTC)[返信]
返信 㭍月例祭さん・伊佐坂安物さん、ご丁寧な解説ありがとうございました。WP:RSWP:Vは一通り読んでいるわけですが、自分が出典として使った今回の吉田龍司氏の本は、㭍月例祭さんがご指摘されているのに近い「(史料)にはXXと記述してある」「従来はXXと言われてきたが、XX教授が唱えた新説が現在では主流となっている」という点もそれなりに解説されており、巻末の参考文献リストから一次資料(史料)などにもきちんと当たっていると思われたので、特別な主張のような類で無ければ「それ以外でも、大学レベルの教科書・権威のある出版社からの書籍・雑誌・論文・主流の新聞などは、信頼できる情報源です」の範疇に入ると考えた自分の認識が甘かったということですね。特に今回の発端となった相合元綱のページに関して言えば、もともとほぼ無出典だったので、私の手元にある本から出典をつけたところが全削除された(かと言って要出典テンプレが再掲されたり、ノートに意図が書かれていたわけではないです)わけで、無出典よりは一般書でも出典があるべきだろうというのが私の意図でした。
丁度、伊佐坂安物さんがプロジェクト:日本の戦国時代で「戦国時代関係の記事ですと、人物ですとか戦いとかはそれなりに充実していると思うのですが」と書いておられますが、それでも毛利・大内・尼子などの地方大名関係は記事が少なかったり内容が古かったりするので少しずつでも充実させたいと思ってきたのですが、当該のIP編集者さんからも研究者しか読まないような専門書や論文を読まない人は編集をすべきでは無いという趣旨の忠告も頂きましたので、一般書以上の出典を出せない私としては大変寂しいですが歴史分野での編集からは撤退になりますね。と言うことで、今後の歴史分野を執筆される方々のなお一層のご活躍を影ながら応援しております(そして、個人的には毛利・大内・尼子関係の記事の充実を大いに願っています。比較的メジャーな毛利元就毛利水軍の中にも色々と出典ゼロとかこれは怪しいと思う記述があるので今後執筆したかった項目もチラホラありますので・・・)。繰り返しになりますが、お二方様、どうもありがとうございました。--TT mk2会話) 2019年10月13日 (日) 16:50 (UTC)(入力ミスを加筆訂正--TT mk2会話2019年10月13日 (日) 16:55 (UTC)[返信]
返信 (TT mk2さん宛)  お返事いただきありがとうございます。ライターの書いた本ではなく、専門家の書いた一般書(例えば、岩波・中公などの新書)であれば、[[[WP:V]]]・WP:RS上基本的には使えますし、それほど値が張るものでもないのでそうしたものを利用して執筆していただけると嬉しいです。もちろん専門家の書いたものでも新書等ですと史料や先行研究などの根拠・判断過程が省かれていることがあり、微妙な面もあるのですが、一方で戦国時代(特に後期)の研究は専門家も一般書を媒体として議論してきたという経緯もあり(平井上総、2017、「織田信長研究の現在」、『歴史学研究』955号、青木書店)、専門書のなかで一般書を取り上げて反論するということもあります(池享「戦国・織豊期の武家・天皇関係を見る目―今谷明著『戦国大名と天皇』・『信長と天皇』を読む」『戦国・織豊期の武家と天皇』校倉書房、2003年)。特に伝記記事であれば、論文ベースで出典が得られないことも多く、専門家の手による一般書・伝記にある程度は依拠することになると思います。
例えば、吉川弘文館の出している人物叢書は「調査研究に役立つ正確な伝記叢書」([1])とされていて、しかも価格はせいぜい2000円強です。残念ながら毛利元就は人物叢書がないのですが、代わりに吉川弘文館から河合正治 『安芸毛利一族』、池享『知将・毛利元就―国人領主から戦国大名へ』新日本出版社、2009年、(ちょっと高いですが)ミネルヴァ日本評伝選岸田裕之『毛利元就』2014年等があります。直接『毛利元就』と銘打っていないものでも、専門家による一般書で出店となりうるものは他にも多数あると思います。
なお、研究書も近くの図書館で相互貸借を申し込めば無料で取り寄せられますし、論文も国会図書館の複写請求を使えば、一論文あたり数百円程度で入手できます。それほど物理的・金銭的ハードルは高くないという印象です。もっとも、私も最近は時間がなくてあまり書けてはいませんが……。--伊佐坂安物会話/履歴2019年10月14日 (月) 01:21 (UTC)[返信]
  • コメント 先にコメントされた、歴史に詳しいお二方にお叱りを受けるかもしれませんが、あえて単純化して言えば、ある書籍や雑誌記事が出典として信頼性が認められるか否かのポイントは、それが一般向けか専門家向けか、という点よりも、その資料の著者が誰か、という点の方が重要と考えられます。上で伊佐坂安物さんがコメントされているように、大学などに所属している(いた)その分野の研究者の著作物であれば、一般向けの新書などであっても「信頼できる情報源」として認められるでしょう。
さて、問題となっている吉田龍司氏ですが、どんな人物か不明だったので、Amazonで確かめたら、「経済紙の元記者で、経済、歴史、サブカル分野の本を多数執筆しているフリーライター」とのことでした。吉田氏には悪いけど、このプロフィールは「信頼性の認められない一般書の著者」の典型的なタイプです。歴史に限らずどの専門分野でも、このタイプの著者による著作物は基本的に「信頼できる情報源」とは認められません(サブカル系なら多少は認められるかも)。
たしかにフリーライターであっても、きちんと史料に当たって書いているのかもしれませんが、非専門家の問題点は、論文や史料などに書かれている文における、微妙な、しかし重大なニュアンスを読み取れない(もしくは気がつかない)、史料を読む時の注意点について詳しくない、などの点です。たとえば、一次資料に「ほにゃらら」と書いてあるからといって、それをそのまま表面的に解釈したら大間違いという場合も少なくありません。専門家なら、表面的にはそう書いてあるが実はこの文書にはこういう背景があってこういう事情があるからこれは「ほげほげ」と解釈すべきである、という理解が常識になっているかも知れません。歴史分野では特にそういうことは多いです。専門家が書く文章は、一見するとフリーライターの書いたものとさして変わらないようにも見えたとしても、そういった表面的には見えないような部分まで配慮されているものです。
で、
>専門家以外が執筆した歴史本・歴史雑誌の記事などは、無条件に除去(ないし一律に信頼性要検証)を付されるものなのか(及び、その場合はガイドラインや方針のどの部分が根拠になるのか<
というご質問に対する回答ですが、基本的にはやはり除去されるべきものでしょう。その根拠としては、WP:RS#偽の権威に注意にある「専門知識を有することが検証可能な人物によるものを情報源としてください。」あたりになるでしょうか。--Loasa会話2019年10月14日 (月) 14:30 (UTC)[返信]
返信 (伊佐坂安物さん、 Loasaさん宛) 重ねて色々と教えてくださり恐縮です。具体的な書名やを挙げてくださったり著述者(のプロフィール)を考慮することなど、色々と勉強になりました。所詮素人に過ぎない自分には専門書・学術書には全く手が届かないと思い「歴史分野からは撤退ですね」と書きましたが、皆様のアドバイスを参考に出典として耐えうる本を次は買ってみることにします。--TT mk2会話2019年10月17日 (木) 13:02 (UTC)[返信]