Wikipedia:井戸端/subj/映画の内容を紹介するページにおいて、史実を持ち出し指摘する記述する事の是非を皆様にお聞きします。

映画の内容を紹介するページにおいて、史実を持ち出し指摘する記述する事の是非を皆様にお聞きします。[編集]

以前同じ内容を提案しましたが、再度皆様方の中立なご意見をお聞かせ頂きたいと思います。非常に難しい問題かと思いますが、どうか宜しくご協力下さいませ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%81%AF%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%95%B7%E5%AE%98_%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD#Wikied.E6.B0.8F.E3.81.AE.E7.B7.A8.E9.9B.86.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6 上記で論争が展開されています。この件で問題になっている点を要約しますと。

  • 映画の内容と反響、評価を記述したページにおいて、原作とは関係のない資料・個人的な知識に基づいて記述したり指摘することの是非。
  • 映画の内容と反響を紹介するページにおいては、識者が公のメディア(新聞・雑誌・ネット)によって意見や感想を発表した内容のみを記述するべきであり、それ以外の個人的な指摘や説明は『独自研究』にあたらないのか?
  • 映画と言う作品において、たとえ史実の内容を元にしているとしても多少史実と異なる描写があったとして、それは編集上の理由や、脚本家があえて説明を省いたりする可能性が高く、それに関していちいち史実を持ち出して指摘するのは意味をなさないのではないか?(独自研究羅列・知識のひけらかし合戦になる可能性を非常に危惧しています)

の3点に集約されると思います(細かい論点については、上記リンクの論議を参考にして下さい)

もちろん従来のウィキルールの内容で対応出来るとは思います。ですか今回、他の皆様のご意見を参考に、一定のルール作りの必要性を感じました。こちらの皆様のご意見を参考に、映画の表現描写に関しての記述に一定のルールを提唱したいと思います。どうかご協力宜しくお願いします--男梅 2012年1月11日 (水) 02:05 (UTC)[返信]

映画評的な雑誌や、評論家の言、或いは歴史研究家のそれでもよいので、典拠を引っ張ってくるのが筋でしょう。今回の件でしたら、具体的には「設定ミスの可能性が高い」などは典型的と言えます(完全に憶測または感想です)。もちろん、独自研究でない、権威ある指摘の紹介ならば、史実との差異の紹介自体は有益または議論の価値のあるところでしょう。この辺りは史実や実在の人物を元にしたアニメ、マンガ、小説、映画、全てについてやはりありがちな独自研究なのでしょうね(完全オリジナル作品の記事についても、独自研究による解説は多く見られるのですが)。明文化するのであれば、プロジェクトごとなどではなく一括してWikipedia:独自研究は載せないに、史実または歴史上の人物を題材とした創作作品について、史実と異なる箇所を編集者が独自に指摘するなどとでもしておくのでしょう。明文化により混乱が少なくなることは明らかですし、この混乱はコミュニティに重い負担となっていますが、細かすぎてきりがないと見られる方も多いでしょう。ただし、史実または歴史上の人物を題材とした創作作品は非常に多く、ありふれた記事でもあり、細かいと見なすものでもない気がしますが。--Hman 2012年1月11日 (水) 03:11 (UTC)[返信]
◆議論全部を読む気は全く無いのですが。
  • 反響や評価に於いても(と言うか「反響や評価にこそ」)二次資料である出典が必要でしょう。一次資料に基づいて書くことは出来ません。
  • 同じく二次資料が無いものは書けないでしょう。
  • これは「多少」の持つ曖昧さと「特筆性」の持つ曖昧さとが競合するところだと思います。男梅氏は「多少=特筆性無し」の意味で書いているのでしょうが、特筆性の有無は二次資料の多寡で判断する建前ですから、それに特筆性があるか否かを内容からウィキペディアンが判断するべきではありません。そもそもその「史実」とやらが正しいということ前提自体からして出典無しに書くのが難しいというのに、それとの相違を出典無しに書けるはずがないでしょう。
ルール化の必要性が感じられません。必要なのは、せいぜいがところ「あらかじめお読み下さい」程度の文章なのではないでしょうか。ルール化するには客観的な基準を必要とします。そしてルールを増やせば増やすほど抜け道が増えるものであり、その抜け道を利用しようとする者を誘惑するものです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月11日 (水) 04:14 (UTC)[返信]

聯合艦隊司令長官 山本五十六のノートにも似たようなことを書きましたが、ご存知のように、今般、ドラマや映画における歴史考証、時代考証の貧弱さ、また、恣意的な歴史「改ざん」が目につきます。そうしたことからも、出典のある有意義な情報は、脚注として加えていいと思いますよ。何が有意義な情報に該当し何がそれに該当しないのかは、主観的なお話になってしまうかもしれませんが。。。いずれにしても、評価を抜きにして、かつ端的に、史実ではこうだよって、書いていただければ、読者の一人としても助かります。また、作品自体を直接扱った本からの引用だけが認められるというのは絶対条件ではないと思います。なぜなら、そのような本は、かなり有名な作品に関するものを除けば、宣伝目的のハンドブック的なもの以外に見つけることは困難であるからです。原作本&識者が発表したものであれば、脚注でなく本文中で紹介していいと思います。Takabeg 2012年1月11日 (水) 04:21 (UTC)[返信]


皆様方に理解して頂けるように、私の意見を整理しますと

  • 映画の内容を表記するページに於いては、映画の内容や評価・反響を記述することを主たる内容にするべきである。
  • 映画という限られた尺の中で、一般の人々に内容を理解して貰うために、あえて難しい表現や説明を省き、解りやすく脚本や表現を史実と違う形に変えることはよくあることである。
  • 映画の表現や描写、小道具・所作に対し、史実を持ち出して記述することは全く意味を成さない上に、支離滅裂な知識披露合戦に繋がるキリがない行為である。但し、識者や専門家の意見や批評等が公のメディア(出版物・TV・ネット)で公開されており、それが証明されること、または広く流布されている場合はこの限りでは無い。
  • 出展を明記して記述していたとしても、本作品とは全く関係のない書物からの引用による個人的な考え・知識を主な拠り所とした『作品に対する粗探し・突っこみ』は、記述の内容を複雑化してしまう事にしかならない。(こういった内容は映画の内容を説明するを目的とするページに記述する必要性は無い)。

と言う形になります。Hman 様のWikipedia:独自研究は載せないに、『史実または歴史上の人物を題材とした創作作品について、史実と異なる箇所を編集者が独自に指摘するなどとでもしておく』というご指摘はとても簡潔にまとめられていて、現状では1番良い対応法ではないかと感じました。--男梅 2012年1月11日 (水) 04:51 (UTC)[返信]


(1) 史実を扱った映像作品について、節度を持って、作品内容と史実との違いを、Wikipedia:検証可能性を満たす形で記載するのは、作品の種類によっては特に問題ないと考えます。

ノート:聯合艦隊司令長官 山本五十六でも述べましたが、例えば、NHK『大河ドラマ』のように、明らかに「フィクションの映像化」である場合は、史実との相違点を細かに記述するのは無意味である場合が多いでしょう。こうした作品については、例えば

「長篠の合戦のシーンでは、鉄砲の三段撃ちが行われた描写が為されていたが、現在では、これは史実ではないとする意見が多い(田中一郎「長篠合戦の真実」10頁)、鈴木次郎「長篠合戦」20頁」

程度に止めるべきです。これは、過去の戦争映画「男たちの大和」「連合艦隊」「二百三高地」などについても同様でしょう。これらは「娯楽戦争映画」であり、主人公が架空人物と明示されている点において共通しています。

一方、史実を忠実に映像化する意図で製作されたと判断できる材料がある作品、例えば、この提案の発端になった聯合艦隊司令長官 山本五十六は、副題が「太平洋戦争70年目の真実」であり(これは、原作である半藤一利の著作の副題をそのままつけただけだ、という男梅さんの指摘がありましたが)、パンフレットを開いた頁に「日米開戦70年、今明かされる衝撃の歴史超大作」「70年の歴史の渦に溶けて行ったこの国の真実を、鮮やかに蘇らせる」とあります。

ただし、2時間ほどの映画に仕上げる以上、全てを史実に忠実にするのは無理であり、そのことはパンフレット掲載の長谷川康夫氏(脚本)のインタビューで言及されております。

私は、映像化のために史実から「若干」離れるのは致し方ないと考えますが、その部分を検証可能性を満たす形で摘示することが「独自研究」に当たるとは考えません。映画を理解する上で、史実に忠実に描写した部分と、そうでない部分を判別することはプラスになると考えます。

今後、仮に阿川弘之氏の海軍三部作「米内光政」「山本五十六」「井上成美」などが映像化されるとすれば、同様に「映画作りのために止むを得ない部分を除いて、史実を忠実に映像化したもの」になるでしょう。

なお、Hmanさんが指摘なさる『設定ミスの可能性が高い』などは、Pooh456が書いたものですが、こういった記述は確かに「独自研究」「私見」として排除されても仕方なく、ご指摘の通りですので、そのような点を改訂しました。--Pooh456 2012年1月11日 (水) 05:21 (UTC)[返信]

Wikipedia:独自研究は載せないには、「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」(強調は原文のまま)と冒頭で明記されています。歴史的な出来事を舞台にした作品に対して、その表現が史実と異なることを指摘するためには、その指摘自体が検証可能な資料の中にある必要があるでしょう。その作品について言及していない資料を用いて、作中の表現について何らかの記述を行うことは、ウィキペディアの編集者による考察(すなわち独自研究)の余地を生み出してしまうからです。--有足魚 2012年1月11日 (水) 08:17 (UTC)[返信]
私自身が明確な回答を持っていないので少々回りくどい話になるかも知れませんが、上で有足魚さんが提示しているルールを基に考えて見ますと、まず、映画と言ってもフィクションなのかノンフィクションなのかで分けて考える必要が有ると思います。しかし、映画で完全なノンフィクション作品と言うのは余り見かけませんので、大抵の場合はフィクションですよね。
とすると、例えば「宇宙戦艦ヤマト」は「戦艦大和」を題材にした未来フィクションですが、仮にヤマトの設定が過去にタイムスリップして第二次世界大戦に存在していたら・・なんて話の「宇宙戦艦ヤマト過去編」なる作品が存在していたら・・と考えますと、主題は「宇宙戦艦ヤマト過去編」と言う作品そのものであり、その作品が用いているモチーフが「戦艦大和」だったり「第二次世界大戦」だったりする訳ですから、常識的に考えてもルール的に考えても、歴史文献による史実を記事に加えるのは「主題に直接的」では無く「モチーフに対して間接的」なのでナンセンスであると思えます。なにせその性能差から歴史に於ける展開そのものが大きく変わった作品になる事は容易に想像出来るからです。
しかし、作品が限りなくノンフィクションに近いので有れば、それは史実と異なる箇所を端的に「信頼出来る情報源」に基づいて書き加えるのは確かに有意義だとも思いますが、どんなにノンフィクションに近くてもジャンル的にフィクション作品の域を出ないとなれば、それはプロジェクトに対する例外ルールとして合意されるべきものなのかな・・と今の所感じております。
--Toshi999 2012年1月11日 (水) 08:47 (UTC)[返信]
便宜上、話を「戦争映画」に限定します。Toshi999さんが言われるように、また「聯合艦隊司令長官 山本五十六」のパンフレットで長谷川康夫氏(脚本)が述べているように、映画で「完全なノンフィクション」というのは普通はありません。あったとすれば、それは「ドキュメンタリー」というジャンルになります。そのような映画が製作されて商業的に上映されることは稀です。
「ドキュメンタリー」のことは考えずに「フィクションの戦争映画」と「ノンフィクションの戦争映画」を区分するには「主人公が架空人物か否か」で考えると、すんなり分けられるように思います。
思いつく作品を挙げますと、
主人公が架空人物、もしくは実名ではないのでフィクション映画。「潜水艦イ-57降伏せず」「男たちの大和」「連合艦隊」「二百三高地」「プライベート・ライアン」「プラトーン」「キスカ」「八甲田山死の彷徨」「眼下の敵」「ビスマルク号を撃沈せよ」など。
主人公が実在人物なのでノンフィクション映画。「聯合艦隊司令長官 山本五十六」「ワルキューレ」「パットン大戦車軍団」「砂漠の鬼将軍」「坂の上の雲(NHK)」など。--Pooh456 2012年1月11日 (水) 10:07 (UTC)[返信]
個人的には登場人物によってフィクションかノンフィクションかを判断すると言う基準は到底受け入れ難い物を感じますが、そこは各記事のノートやプロジェクトのノートで合意を取って頂ければ宜しいかと思います。ここで作品を列挙されても議題から外れた方向に進みそうです。--Toshi999 2012年1月11日 (水) 10:24 (UTC)[返信]
「主人公が実在人物ならノンフィクション映画、架空人物ならフィクション映画」という切り分けをする、というのは、Pooh456が今日思いついたことですから、Toshi999さんが「受け入れ難い物を感じる」と仰るのも当然と思います。ただ、各々の作品をご覧になっていれば、前記の分類基準で、意外と納得できる結果になると思われませんか?なお、ここで、過去の戦争映画の個々の内容について論じ始める意図はございませんのでご安心下さい。
ところで、提案者の男梅さんが懸念なさり、実際に「男たちの大和」や「連合艦隊」の記事を荒廃させたという「支離滅裂な知識披露合戦」を抑止する方法として、私が試案として示した「『フィクション戦争映画(仮名称)』については規制を厳しくし、史実との比較記載は(原則として)許容しない」に加えて「ノンフィクション戦争映画についても、史実との比較記載は『脚注』においてのみ行う」とする(現在の、記事「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の状態です)はどうでしょう。
「史実との比較記載」を脚注においてのみ行うのであれば、脚注は「読みたくなければ、読まなければ済む」ので、本文の「可読性」を損ないません。
今回の男梅さんのご提案の発端である、記事「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ですが、いずれBDやDVDが出れば、「ストーリー(ネタバレ注意)」が書き込まれるでしょう。その場合、この作品は、例えばミッドウェー海戦の場面でかなり史実を端折っていますので、私としては「映画ではこうだったが、史実はこうである」を比較記載したい所です。その場合、「本文はあくまでも映画のストーリーのみ、史実との比較記載は脚注の形式のみ許容し、検証可能性を満たし、独自研究でないものに限る」という縛りがあれば、程良い所で止まりやすいと考えます。--Pooh456 2012年1月11日 (水) 10:54 (UTC)[返信]
まず、Hmanさんと有足魚さんの意見に賛成です。フィクションであろうとノンフィクションであろうと、ウィキペディアでは編集者が独自に史実との違いを検討して出した結論を記述するべきではありません。違いを検討し、評価するのは歴史家や評論家の仕事であり、私たちはその仕事が信頼できる情報源において発表された場合に限って、その情報源を出典として記事を執筆することができます。
さて、それを前提として。事実との相違が重要かどうかと、フィクションかどうか、主人公が実在人物かどうかは無関係です。事実に取材したフィクション作品中に事実と異なる描写がある場合、製作者の特別な意図や、演出上の工夫が込められていることがあります。そのことが製作者の発言や作品の評論等で指摘されていれば、作品解説のために本文で言及するに値するかもしれません。逆にノンフィクションでも、尺の都合で些細な脚色が行われただけであれば、詳しく解説するほどの重要性はないかもしれません。--Trca 2012年1月11日 (水) 11:44 (UTC)[返信]

ええと。史実を扱った映画の場合、あるテーマに関心のある読者によっては、史実と映画の描かれ方の違いは有用な情報となる場合があります。 たとえば、つい最近私はT.E.ロレンスのことを調べていました。ロレンス自身やロレンス神話の形成に関する研究や書籍というのは結構な数がありまして、映画『アラビアのロレンス』にしても事実をどのように歪ませてロレンス神話の形成に貢献したのかという興味の対象にはなります。要するにオリエンタリズムという観点から、事実の歪ませ方についての情報は大変に有用なのです。この映画では、1.実在人物の名前で登場する役、2.モデルとなる実在人物がいるが名前を替えている役、3.モデルとなる複数の実在人物を一つの人物に集約させた役、4.モデルとなる実在人物が希薄な役、などが入り乱れているのですが、あれこれ調べていく過程では英語版のにあるFictional charactersとNonfictional charactersの項目は大変に参考になりました(出典を示していないのは問題ですが。ちなみに日本語版のキャスト欄の欄外記述はあまり役に立ちませんでした)。

ただ、この映画で事実との違いを逐一上げていくとなると膨大な項目を挙げることになります。この映画はロレンス研究者によっては「すべて嘘」と言い切れる程ですし、そもそも原作にあたるロレンスの自著である『知恵の七柱』の信憑性自体が研究者によっては議論の俎上にあります。ロレンスは書簡などで、矛盾することや曖昧な仄めかしをかなり書き残しているので、議論は簡単に収束しません。この点では、かなりの分量を割いている英語版のHistorical accuracyも十分な文献をサーベイして記述しているとは言い難い状態にあります。おそらく、一般的な読者にとっては、それほど細かく書かれる必要はなくて文献を示した上で、主たる相違点を幾つか説明しておくぐらいが丁度よいのでしょう。(「一般的な読者」像を巡って議論の余地は残りますが。)

と、ここまでは「映画で史実を持ち出して記述しても良い」と思われる事例の話でした。

今回の発端になった論争はレベルが異なるように思えます。つまり、相当のマニアの方々が「事実との相違をあげつらうこと」、言葉が悪ければ言い換えて「事実との相違を細かく考察すること」自体を目的にしておられ、そのために映像情報からの推測や考察によって引き出された情報(軍隊組織内の階級とか)なども動員しながら記述しているだけです。で、すでに指摘されていることでしょうけれど、時代考証や設定考証が弱い創作物など、この手の指摘はいくらでもできます。そして、そういう指摘を並べても百科事典として益する記述になるとも思えません。考証が弱いことが、作品の問題になっていることが十分に信頼できる文献で確認できるなら、代表的な例を幾つか例示して「、、、、など、歴史考証が貧弱であることが問題になった[51]」ぐらいのことは書けるかも知れませんが、そういう二次資料が無いのであれば記述は諦めていただくしかありません。

ロレンスはその実像を巡って、膨大な研究書が書かれた人物ですから、その伝記映画と一般には考えられている『アラビアのロレンス』について事実との相違を記述することには、それ相応の正当性はありますし、オリエンタリズムの典型例として主題化できますし、文献も示すことはできます。しかし今回、持ち込まれた『聯合艦隊、、、』の牧野某少尉の描写が整合的でないことや、設定自体に不整合が見られることについて記述することに、百科事典としての正当性はどれだけあるのか、私には疑問です。それらの不整合を書きならべることで、提示されうるテーマはあるのでしょうか?あるのであれば、二次資料で示していただきたいと思います。--おーた 2012年1月11日 (水) 13:09 (UTC)[返信]

厳密にルール適用すればアウトかもしれませんが、今回問題となっている箇所は非常に興味深く読めました。ですので、削除はもったいないというのが正直なところ。できれば、当該ノートで融和的に合意形成を行って欲しいものです。ただ「思われる」「設定ミスの可能性が高い」という書き方は明確に独自研究です。たとえば、「劇中では少尉となっているが、史実においては・・・配属される際は必ず中尉以上であった[出典]。」とすれば先方の理解も得られやすいのではないかと。--Truesight 2012年1月12日 (木) 06:51 (UTC)[返信]
Truesightさんへ。記事 聯合艦隊司令長官 山本五十六 の、作品内容と史実を比較した部分(脚注の形式)ですが、ご指摘の「ただ『思われる』『設定ミスの可能性が高い』という書き方は明確に独自研究です」のような部分は除去して、Truesightさんの提案なさるような書き方に改訂済みです。ご確認下さい。--Pooh456 2012年1月12日 (木) 10:34 (UTC)[返信]
Truesightさんは「今回問題となっている箇所は非常に興味深く読めました」と、おっしゃいますが、圧倒的多数の一般の読者はああいう記述は鬱陶しいだけであって、興味など持ちません。たとえ少数でも百科事典に記述するに値するならば記述されるべきですが、今回の問題となっている部分が百科事典への記述に値するという主張は、何によって担保されるのでしょうか?Truesightさんの主観による担保では、納得出来ない人が少なからず居るという現実は直視ください。そしてWP:N#NCONTENTにある「百科事典の記事は、その主題に関する一般的な知識の概要である」という一文を是非、御考慮ください。私が例に持ち出した『アラビアのロレンス』ならば、史実との差異に関する話題はオリエンタリズムの実例として主題化(記事としては副主題化?)することができます。しかし、今回問題となっている箇所はどのような主題化が出来るのでしょうか?ごく一部の物好きの趣味ではないことをコミュニティ内で説得するのであれば、それを主題化している研究書を示せば良いのです。二次資料を示せというのはそういうことなのであって、執筆者の推論を補強する資料を示せればよいと考えるのは的外れであることをご理解ください。今回問題になっている箇所について言えば、「この映画作品の時代考証や場面考証が不十分で不整合を起こしていること」自体を主題としている資料はあるのか?と問われているのです。そうした資料が示されていない以上、ああいうトリビア情報の記載に対する反発は今後もあり続けます。私もまた、記載に反対いたします。--おーた 2012年1月12日 (木) 14:50 (UTC)[返信]

議論の中で問題点がある程度絞られてきたような気がいたします。。提案者として、私はHman 氏。有足魚Trca氏のご意見に概ね賛成です。一方、出展が確かな記述で、しかも本文の補足説明として有益と思われる文章を、あえてそれを残すことで作品の意味が深く理解出来る可能性のある記述を、全て一律『独自研究』として削除してしまうのも、記述を育てるという意味では問題があると感じました。今後のルール原案制作のために、もう暫く皆様方のお知恵をお貸し下さい。--男梅 2012年1月12日 (木) 12:50 (UTC)[返信]

世の中には2ちゃんねる情報を信じてしまう人がいます。私の親も、健康食品のCMにコロリと騙されます。私は他のコミュニティにも色々と参加していますが、ウィキペディアを過度に信用している方も多い印象で、まあ、信じる方が悪いと言い放つこともできないでもないですが、ウィキペディアとしてはどちらかと言えば、信頼性の確保にウェイトを置くべきではないかな、と思っています。適切とも言い切れない記述を除去しないならしないで、「要出典」「要検証」「独自研究」「中立性に難ありとの指摘有り」などと、各種タグで読者に誤りである可能性がある点、強く注意を促すべきでしょう。最悪なのは、怪しい情報が何の注意もなく、しれっと正しい情報の隣に記されている事です。男梅さんの懸念は、多くの執筆者が常に抱いているジレンマと思います。異論反論が寄せられた際には一旦無難な形にし、文献の調査を待って地道かつ確実に、協力しあいながら信頼性のある記述を積み重ねていけば良いのでしょう。反面、身も蓋もない言い方をすれば、他の執筆者が黙認している内は、あくまで方針を理解した上でその精神を大きく逸脱しない程度に、多少筆が走ってしまうことも許容されるかもしれません。--Hman 2012年1月12日 (木) 13:40 (UTC)[返信]
聯合艦隊司令長官 山本五十六を読んだ限りの意見です。従ってこの問題を敷衍的に捉え改善を促す議論には必ずしも馴染まないものであるかもしれないことをまず断っておきます。
私見では、ノンフィクション性の高い創作物について史実との違いを付記するのは有用であると考えます。該記事はサブタイトルが「太平洋戦争70年目の真実」となっていたり、概要説には「山本五十六元帥の実像を映画化した戦争映画。」とノンフィクション性をアピールするものとなっていますので史実との違いを記載することは閲覧者の利益に適うものであると考えます。但し、そうであっても映画内容の説明を主とすべきであり、本文中に映画内容と同列に記述するのは、外部識者の出典なしには憚られるものであり、また必要最小限にとどめるべきであるとも思います。該記事において、問題箇所は脚注部分に凝縮されていると思いますが、1~5のいずれも興味深い内容のものです(但し、4.については映画との関連性が不明。山本五十六に書けばいいのではないかと)。また、記述箇所も脚注にあることで映画内容の説明を主とすべきという観点もクリアされているものと思います。必要最小限であるかどうかという観点ではやや筆が走りすぎのようにも思いますが、わたしとしては許容できる範囲です。
強いてルールからこの問題を捉えると確かどっかにWP:Vあたりに、あきらかな事実の記述には出典は不要、というのがあったと思います。出典に照らし、映画と史実との違いがあきらかであるのであれば、その事実のみを執筆者の主観を交えず淡々と最小限記述する分にはセーフなんじゃないですかね。
わたしとしてはこの論争の双方に誠実さを感じます。それ故、双方には平和的、融和的な議論により妥協点を探して欲しいと思います。--Truesight 2012年1月12日 (木) 15:42 (UTC)修正--Truesight 2012年1月12日 (木) 15:49 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せないですね。事実と言うよりは、自明、常識。もう誰が見ても。アップルパイとも言われます。どの程度まで無出典で良いのかは常に難しい問題ですから、少しでも迷ったら出典を付けるなり、要出典として協力を求めるなりすべきでしょう。他人からツッコまれたらできるだけ出典か要出典を付けましょう。私は一般論で申し上げますが、こう言った場合セーフかアウトかで言うなら必ずしもアウトとは言えませんが、選択に主観が入る虞があります。基本的には二次資料に基づくべきで、分別有る大人であれば誰が見てもこれが重大な問題だと見なせるものであれば問題は無いかもしれません。まあ、実はこの辺りは、恐らくやってみるしかありません。果敢かつ大胆な編集も、時には必要であることは確かです。しかしながら一次資料を直接評価すると言う変化球を出してきている以上、有意な異論が、それも複数見られる様でしたら、無理筋と諦めるところでしょう。あくまで一般論ですが。個々の執筆者にある程度の裁量があることは改めて言うまでもありませんが、それが発揮できるのは方針の精神とコミュニティの大意に矛盾しない範囲内でのことではありませんか。--Hman 2012年1月12日 (木) 16:11 (UTC)[返信]
全体的に傾聴に値するご意見で卓見だと思います。わたしとしては主題にたいする論評とみなされない範囲で史実との違いを脚注などで淡々と記すのは、お言葉を借りれば、方針の精神に逆らわない執筆者の裁量が許される場面ではないかと考えますが、後はコミュニティの判断を待つしかないでしょうね。--Truesight 2012年1月12日 (木) 16:49 (UTC)[返信]

(だいたい皆さんもおっしゃってますが)私は単純に、史実との差異についての表記は「原則としてフィクションならばいらない。ノンフィクションならば信頼できる情報源で指摘されているならあってもよい。」と考えています。--Adequate 2012年1月13日 (金) 05:06 (UTC)[返信]

映画ではないのですが、坂の上の雲#評価にあるような、フィクションでないとしながら史実との相違が反響を呼んだケースなどなら、それを出典つきで書くのは問題ないと思います(実際にはこの記事は出典が不十分なので、それを付ける必要があります)。一方、明らかにフィクションでも、江〜姫たちの戦国〜#作品内容と反響にあるような、史実と違い過ぎて批判されたことが出典で明らかにできるケースなどならば、それを書くのは構わないのではないでしょうか(この記事も、出典が信頼できる情報源なのかと言うと、ちょっと問題ではあります。適当な実例が見つからず、申し訳ありません)。しかし、フィクション、ノンフィクションを問わず、信頼できる情報源たる二次資料が指摘ないし問題視していない史実との差異を、わざわざ書く必要はないような気がします。--立花左近 2012年1月13日 (金) 06:20 (UTC)少し追記--立花左近 2012年1月13日 (金) 06:30 (UTC)[返信]
映画は文芸作品であり、いかに史実に忠実に描こうとしていようとも、ノンフィクションを謳っていようとも学術研究ではありえず、フィクションという前提が必要です。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)というスタイルマニュアルがありますので、そちらが参考になると思います。現実世界の観点でフィクションを論じるのは文芸評論としては「ありがちな罠」で、ほとんどの場合Wikipedia読者にとって不用か無用のおせっかいなものです。八甲田山死の彷徨八甲田山 (映画)などの記事は参考になると思います。文芸作品はすべてフィクションというのは原則です。--大和屋敷 2012年1月13日 (金) 08:15 (UTC)[返信]

(インデント戻します)方向性が見えてきた様な気がします。

  • 史実または歴史上の人物を題材とした創作作品について、史実と異なる箇所を編集者が独自に指摘することは控えるべき。
  • 映画という作品は、フィクション・ノンフィクションに関わらず、あくまでも二次創作・文芸作品であるということを念頭に置かなければならない。
  • 時代考証や設定考証が弱い創作物などに対し、指摘を並べても百科事典として益する記述になるとも思えない(大多数の読者にとって、トリビア的な記述は迷惑である)。
  • フィクション・ノンフィクションに関わらず、相違が指摘されたものであるならば、出展付きで説明するのは問題がないと思われる。
  • 主題にたいする論評とみなされない範囲で史実との違いを脚注等で記すのは、方針の精神に逆らわない執筆者の裁量が許されるのではないか?

(切り貼りばかりで済みませんが)こういった所でしょうか?そうなりますと、上記で私が提唱した意見に結論が近づいてきたような気がします。そろそろ意見をまとめて行きたいと思いますが、ルールの草案作りについて、皆様方のご意見はいかがでしょうか?--男梅 2012年1月13日 (金) 11:37 (UTC)[返信]

男梅さんのご提案に賛成します。
私見を追加させて頂きますと、
1) 「主題にたいする論評とみなされない範囲で史実との違いを脚注等で記すのは、方針の精神に逆らわない執筆者の裁量が許されるのではないか?」は、ノンフィクションについて許容する。
2) その作品が、フィクションか、ノンフィクションは、「主人公と主要登場人物が実在人物ならノンフィクション、主人公が架空人物・仮名人物であればフィクション」でだいたい切り分けられると思われます。うまく切り分けられない場合は、各作品のノートで議論すれば良いでしょう。
上記の部分は、考えが足りなかったようなので取り消します。
他の方もご意見よろしくお願いします。
--Pooh456 2012年1月13日 (金) 13:47 (UTC) / 修正 --Pooh456 2012年1月13日 (金) 16:27 (UTC)[返信]


(一旦のまとめに入っているのに発言するのは忍びないけど)特筆性に関する話題は、程度はどうであれ「何でその記述が必要か」というごくごく単純な話でしかないと考えています。そして、今回の場合、作品理解には何の影響も与えないが、考証の甘さを指摘するのに必要だという。
自明ではなく、広く知られているわけでもない外的な観点(≠情報)を執筆者が独自に設定するというのは独自研究以外の何物でも無いでしょう。これは単純な話で、1つ1つのデータ(例)が出典の付いた間違いのない情報であろうと、そこから何を読み取って、どう結論付けるかは、主観の領域でしかないからです。もうちょっとカッコ良く言うと帰納法においては前提が真だからといって結論も真になるとは限らない、ということです。
例えば今回の「考証の甘さを指摘する」という外的な観点でいうなら、時代考証について高い評価を受けた『七人の侍』についても「戦国時代の農民は戦いの仕方を心得ていた」「刀のぶつかり合いではあまり音はしない」などという史実(事実)をもって「『七人の侍』は考証の甘いの作品である」と結論付けることができてしまう。
例えば牧野某という架空の人物の階級が史実に照らせば中尉ではないとおかしいとして、それが考証の甘さをわざわざ指摘するのに値する事例になるかどうかは決めることができない。仮に10の事例を挙げていても、それがそれを結論付ける妥当な個数なのかはわからない。考証の甘さは執筆者であるPooh456氏が保障してくれるとして、Pooh456氏の正しさは誰(何)が保障してくれるのか?それが問題です。--EULE 2012年1月13日 (金) 15:24 (UTC)[返信]
EULEさんの仰りたいことが今ひとつピンと来ないので、外したコメントになるかもしれませんが、その点はお許し下さい。
『聯合艦隊司令長官 山本五十六』について言いますと、私が主に書いた「脚注」は、
  • 映画では、堀悌吉について『元・海軍中将。山本と海軍兵学校同期だが、5年前に海軍を辞めている』と説明されるだけ。「堀は、山本と海兵同期で、その海兵32期のクラスヘッドであり、山本が最も信頼し敬愛していた友人であった。山本より1年早い1933年(昭和8年)に中将に進級したが、条約派を海軍から追放した大角人事で1934年(昭和9年)12月に予備役編入された。(出典:阿川『山本五十六』」「堀は、海軍から「山本五十六の親戚代表」と処遇され、山本・堀と海兵同期生である海軍大臣の嶋田繁太郎大将に海軍省に呼ばれ、嶋田から山本の戦死を告げられた。(出典:同)」という情報を注記することで、背広姿の堀がしょっちゅう出てくること、映画で堀が山本宅を訪ねて山本の戦死を公式発表の前に山本の妻子に知らせた、などの理由が分かる。
  • 山本が、トラック島の旗艦の長官室で、姉の嘉寿子から送られて来た手紙を読み、送られて来た干し柿を頬張るシーンが、「嘉寿子が、長岡の菓子を山本宅によく送っていた。山本は長岡の食べ物が大好きだった(出典:山本義正『父-山本義正』」史実をベースにしていることが分る。
  • 映画で牧野幸一が少尉で赤城に赴任している。史実では、海軍の士官搭乗員養成システムから、中尉以上でないと実戦部隊に赴任することはない(出典:『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』)。映画で、牧野少尉が搭乗員室で部下の下士官兵搭乗員と食事をしている。史実では、中尉・少尉・少尉候補生はガンルームで食事をした(出典:『帝国海軍士官入門』)。架空人物である牧野少尉についての設定が甘く、ありえない描写が存在することが分る。
など、作品理解に影響を与えると思いますが?なお、Pooh456が書いた脚注の正確性は、Wikipediaの三大方針に沿い、出典の明記によって保証されます。--Pooh456 2012年1月13日 (金) 16:08 (UTC)・修正 --Pooh456 2012年1月13日 (金) 16:20 (UTC)[返信]
違うかもしれませんが、簡単に言ってしまうと、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成になってしまうので、あるいは、Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなに抵触する恐れがあるので、上記のような書き方はあまり良くないんじゃないでしょうか。--立花左近 2012年1月13日 (金) 16:33 (UTC)[返信]
すみません。読み直したらいくつかの要素が混ざってわかりにくくなっているので1つ1つ言い直して、今回の問題に特化させます。
まず第一に考証面に関して1つ1つ例示する目的は何なのか。作品理解に益すると考えているのか、Takabeg氏が言ったように昨今の考証軽視を鑑みた結果なのか。まずはそこをはっきりさせる。それで今までの経緯から、Pooh456氏はその記述が作品理解に益すると考えている(そのような理由によって特筆性があると判断している)、ということでよろしいのですね?
それを踏まえて、それが本当に作品の理解に益しているのか考える。堀の場合、氏の説明通りなら確かに作品理解に益しているかもしれません。知っているのと知らないので大きく変わってくると推測できますし(もっとも、堀悌吉というページがあるのにここで出典をつけてまでわざわざ詳しく説明する必要は理解できませんが)。他方で、残り2つは全然回答になってない。干し柿を頬張るシーンが史実に基づいていると知ったことによって、どう作品の理解が変わるんですか?牧野少尉の設定が甘いことで何か作品の完成度を壊すことになっているのですか?そこを説明できますか?
じゃなくて、もしTakabeg氏が挙げたような動機であるなら、それは歯牙にもかけないレベルの話だと思います。それはつまり、独自の観点に基づいて論評を行っているということで、いくら個々の事例を出典付きであげようとも無意味である。あるいは一々考証の違いや一致点を挙げること自体が目的だというなら、それもまた場違いである。なぜなら事典ほか、映画論評や批評で意味もなく、一々考証の違いや一致点をあげつらうことは無いからです。--EULE 2012年1月13日 (金) 17:52 (UTC)[返信]

(インデント戻します)論議の方向は出尽くしたと考えますので、再度論点に対して提唱する必要な無くなってきています。そろそろルール作りの段階に入りませんか?

  • まず、Hman 氏の文章が簡潔で解りやすいと考えますので、『史実または歴史上の人物を題材とした創作作品について、史実と異なる箇所を編集者が独自に指摘することは控える』というのを大原則とする。
  • EULE氏の文章から、『時代考証や設定考証が弱いと思われる映画・ドラマ等の創作物などに対し、広く知られているわけでもない外的な観点や情報を、執筆者が独自に解説する行為は、独自研究』に抵触する行為である』とする。
  • 例外として、時代考証や設定考証の差違について、著名人、有名人が新聞・書籍・雑誌等の公の媒体上で指摘されたものであるならば、出展付きで説明する記述を書き加えるのは認める。

という草案でいかがでしょうか?--男梅 2012年1月13日 (金) 23:12 (UTC)[返信]


男梅さんのご提案のうち、後の2項は、
  • EULE氏の文章から、『時代考証や設定考証が弱いと思われる映画・ドラマ等の創作物などに対し、広く知られているわけでもない外的な観点や情報を、執筆者が本文で独自に解説する行為は、独自研究』に抵触する行為である』ので不可とする。
  • 例外として、時代考証や設定考証の差違について、著名人、有名人が新聞・書籍・雑誌等の公の媒体上で指摘したものであるならば、出展付きで説明する記述を本文に書き加えるのを許容する。
とされては如何でしょうか。
その上で、もう1項
  • 主題にたいする論評とみなされない範囲で、関連する史実(史実ではAであった。出典。)、史実との異同(創作物ではBと描写されていた)などを、脚注で記すのは、執筆者の裁量として許容する。
とするのは如何でしょうか。計4項となります。--Pooh456 2012年1月13日 (金) 23:34 (UTC)[返信]
>主題にたいする論評とみなされない範囲で、関連する史実(史実ではAであった。出典。)、史実との異同(創作物ではBと描写されていた)などを、脚注で記すのは、執筆者の裁量として許容する。
「主題にたいする論評とみなされない範囲」など、現実にはあり得ません。
「関連する史実」と「史実との異動」を並べて記すことは特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成です。また、信頼できる情報源の中に全く記載がない事柄をわざわざWikipediaで取り上げることは、Wikipediaが超少数派の指摘を裏書きする結果になりますから、中立的な観点にも反します。さらに、そういう世間で全く注目されていないトリビアを興味本位で収集することは、百科事典としてのWikipediaの役目ではありません。--Dwy 2012年1月14日 (土) 00:25 (UTC)[返信]
実例で示しますと「映画で、牧野は少尉で赤城に着任した」(事実A)「帝国海軍の士官搭乗員養成制度では、海兵卒の兵科将校が実戦部隊に赴任する時は必ず中尉以上になっていた、出典」(事実B)を並べるのが、何故「特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成」なのですか?そもそも、情報が合成されておりません。
『また、信頼できる情報源の中に全く記載がない事柄をわざわざWikipediaで取り上げることは、Wikipediaが超少数派の指摘を裏書きする結果になりますから、中立的な観点にも反します。』
「事実Aは、映画の描写」「事実Bは、出典のある事実」なのですから、「信頼できる情報源の中に全く記載がない事柄」とは言えないでしょう。
『さらに、そういう世間で全く注目されていないトリビアを興味本位で収集することは、百科事典としてのWikipediaの役目ではありません。』
本文での記載ではなく脚注での記載なのですから、そこまで神経質になる必要はないのでは?映画の記事に、映画の理解を助けるための情報を「脚注として」記載することを「世間で全く注目されていないトリビアを興味本位で収集すること」と決めつけるのは乱暴ではないですか?--Pooh456 2012年1月14日 (土) 00:53 (UTC)[返信]
あまり個別の事例をここで論ずるのは適当でないと思いますが、まず大原則として、Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかに、「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」とあります。つまり、意見や解釈、論証についても既に発表されていなければならず、そうでないのに勝手に書いてはならないんですね。で、「映画で、牧野は少尉で赤城に着任した」というのは映画そのものを一次資料とした情報。「帝国海軍の士官搭乗員養成制度では、海兵卒の兵科将校が実戦部隊に赴任する時は必ず中尉以上になっていた」は別の二次資料からもってきた情報で、その異なる情報によって「架空人物である牧野少尉についての設定が甘く、ありえない描写が存在することが分る」としてしまうと、これはやはり情報の合成で、未だ発表されてはいない論証による、未だ発表されていない解釈や意見だと思います。私の意見としては、既に述べた通りで史実との差異が信頼できる情報源で指摘ないし論評されていない限りは書かないというものですが、仮に脚注で許容とするとしても映画の主題からはずれた瑣末な部分について書くのは控えるべきだと思います。この映画でいえば山本五十六の言動とか、真珠湾攻撃の経緯などの描写に史実と違った部分があるなら、それを書くことが「映画の理解を助ける情報」になるとは思いますが、架空人物牧野幸一の設定となると、それがおかしいと指摘するのは、言葉使いはともかくトリビアと見なされてもしかたないような気がします。--立花左近 2012年1月14日 (土) 02:17 (UTC)[返信]
◆もしかしたら過去の井戸端の話題が、Pooh456氏が理解する助けになるかも知れません。--世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月14日 (土) 04:32 (UTC)[返信]
結論があからさまに述べられていなくても、2つの記述を並べることにより別の結論が暗示されていれば、「発表済みの情報の合成」=「独自研究」になります。たとえば英語版の方針ページでは、「国連の目的は国際の平和と安全の維持と規定されているが(出典あり)、国連創設以来160の戦争が発生している(出典あり)」が独自研究になる「発表済みの情報の合成」の例として記載されています。参考にしていただければと思います。--Dwy 2012年1月14日 (土) 11:42 (UTC)[返信]
「主題にたいする論評とみなされない範囲で、関連する史実(史実ではAであった。出典。)、史実との異同(創作物ではBと描写されていた)などを、脚注で記すのは、執筆者の裁量として許容する。」については不適切な記述でしょう。何も史実との差異に違った話ではなく、方針運用全般的な話になります。的確な編注がどうしても必要な時はその時の編集者各位の支持または黙認のもとに記されるのでしょうし、その他様々なところで、運用上の問題として、多少のぶれは編集者各位の支持または黙認のもとに許容されています。しかるにこの様な事をわざわざ明記してしまっては「ガイドライン(または方針)に許容するとあるんだから記述しておく権利がある!」・・・と、些末で無意味で論評ギリギリのものがそこいら中の記事で大量に・・・という危険性が高いと考えます。例外は例外なんです。他の方針・ガイドラインも、そこまではフォローしていませんし、する必要も無いでしょう。いくらなんでも収拾が付かなくなるんじゃないかと。--Hman 2012年1月14日 (土) 02:46 (UTC)[返信]
「しかるにこの様な事をわざわざ明記してしまっては「ガイドライン(または方針)に許容するとあるんだから記述しておく権利がある!」・・・と、些末で無意味で論評ギリギリのものがそこいら中の記事で大量に・・・という危険性が高いと考えます。例外は例外なんです。他の方針・ガイドラインも、そこまではフォローしていませんし、する必要も無いでしょう。いくらなんでも収拾が付かなくなるんじゃないかと。--Hman 2012年1月14日 (土) 02:46 (UTC)[返信]
というご意見には同意します。--Pooh456 2012年1月14日 (土) 03:04 (UTC) / 修正 --Pooh456 2012年1月14日 (土) 04:08 (UTC)[返信]
もはや考証が云々というレベルの話ではないと思います。論述、レポート、論文、どんな文章でもいいですが、まったく主題と関係なく、意味もない何らかの事例を上げる、なんてのはありえないんです。というか作文の授業レベルのお話です。事例を挙げるということは、何らかの目的(結論)に結びたいから挙げるんです。そうせず、ただ挙げた情報が孤立するなら、それは無意味なものでしかない。これは箇条書きを避けるべきだという話に近いです。
ある意味で「ミスの可能性が高い」と結んでいた時の方がマシです。これはつまり、考証の甘さを指摘するという目的(結論)のために事例を挙げたのですから。もちろん、これは明らかな独自研究だから許されないのだけれども、文章の質、論理展開という面から見るなら現状は不完全で無意味なことこの上ない。
注釈なら許されるなんてこともないです。注釈の内容も、その必要性があってされるのであって、瑣末なことを書くために注釈があるわけではない。実際、サブカル分野では注釈を使ってどうでもいい瑣末なことを書いていくってのがしばしば見られる。--EULE 2012年1月14日 (土) 02:50 (UTC)[返信]
大意において各人が述べられていることに同意します。特に他記事に及ぼすリスクという観点からは同意せざるを得ないものがあります。--Truesight 2012年1月14日 (土) 05:00 (UTC)[返信]

(インデント戻します) 再度草案を訂正致します。Pooh456氏が書き加えられた草案の『例外として、時代考証や設定考証の差違について、著名人、有名人が新聞・書籍・雑誌等の公の媒体上で指摘したものであるならば、出展付きで説明する記述を本文に書き加えるのを許容する。』という部分に於いては、皆様方の反対意見が多いようですので外すということに致します、概ねPooh456氏の草案修正された部分を使用させて頂き、

史実または歴史上の人物を題材・舞台とした『映画・ドラマ』等の創作物の内容を解説するウィキペディアのページにおいて

  • 時代考証や設定考証が弱いと思われる部分に対し、編集者が広く流布・認知されていない外的な観点や情報を、本文内で独自に解説・指摘する行為は、『独自研究』に抵触する行為であるので記述不可とする。
  • 例外として、時代考証や設定考証の差違について、専門家・著名人が新聞・書籍・雑誌、インターネット等の公の媒体上で指摘し、内容の出典が担保される場合、出典付きで説明する記述を本文に書き加える事は許容する。

という形に修正致しました。これでいかがでしょうか?ご意見宜しくお願いいたします。--男梅 2012年1月14日 (土) 11:46 (UTC)[返信]

修正案をまとめて頂き有難うございました。
Pooh456の提案で、皆様方の反対が多くボツになったのは「主題にたいする論評とみなされない範囲で、関連する史実(史実ではAであった。出典。)、史実との異同(創作物ではBと描写されていた)などを、脚注で記すのは、執筆者の裁量として許容する。」ですね。これをボツにすることについては、他の方のご意見に理がありますので同意いたします。
なお、男梅さんは「出展」と書いておられますが、「出典」が正しいかと思いますのでご修正下さい。
男梅さんの修正案に賛同いたします。--Pooh456 2012年1月14日 (土) 12:53 (UTC)[返信]
ご指摘いただいた誤字を修正しました。--男梅 2012年1月14日 (土) 13:17 (UTC)[返信]
細かい点でコメントしたいところはありますが、そろそろ井戸端でする話ではなくなってきていると思います。これをどこに書くのかを提示して頂き、細かい議論はそちらのノートで行うようにしませんか。--アルビレオ 2012年1月14日 (土) 21:46 (UTC)[返信]
アルビレオ氏、現在の討論は、もう一つ上へのたたき台。即ちウィキのルール草案への提案から、ルールとしての成立に至るまでの第2段階です。こちらの井戸端上で本草案に対し、賛成か反対か、あるいは修正するべき箇所があれば意見を頂きたいという傾向で話を進めております。細かいところでのコメントに関しては、草案としてページを立ち上げた際にお願いします。
Pooh456氏、賛成の意見ありがとうございます。もう暫く皆様の賛成・反対のご意見をお聞きした上で、ウィキルール草案提案のページを立ち上げ、最終的に結論付けたいと考えています。ただ私、『新規ページを立ち上げた事のないへたれ編集者』でして、その際にはPooh456氏を初め、こちらのページで論議参加頂いた皆様方のご協力・ご指導お願いしたいと考えております。その際には宜しくお願いいたします。--男梅 2012年1月15日 (日) 00:13 (UTC)[返信]
記述足らずの部分があるかもしれませんので…。もちろん当井戸端での議論終結を持って「合意形成がなされた」と判断するという事も出来ますが、今回の議論に関しては今まで非常にグレーゾーンや各ページのローカルページで対応していた部分があり、今回まで議論・草案作りがなされた事は過去になかったでしょう。草案提案ページを立ち上げるまでとはいかなくとも、合意形成のページを立ち上げ、大多数・不特定多数の編集者(ウィキペティアン)に参考にして頂きたい。その為に成文形成を行い参考にして頂きたい…。というのが議論提案者の1人としての希望です。--男梅 2012年1月15日 (日) 00:40 (UTC)[返信]
Wikipedia:方針とガイドライン#採用手順 に手続きが規定されているようです。これを見ますと、アルビレオさんが指摘なさるように、今すぐにやるべきかは別問題として、「井戸端」で議論している状態から、「草案」を作成して、そのノートでの議論に移行しないといけないようですね。
私なりに、これを読んだ所では、
  1. Wikipedia:史実または歴史上の人物を扱う『映画・ドラマ』等の記事のガイドライン(仮題)などといった「Wikipedia:***」という名称の「記事」を新規作成する。これが「ガイドラインの草案」である。
  2. その草案に「Proposed」タグを貼り付ける。すると、「Category:草案」 に登録されるようです。
  3. このように、議論の対象となる草案 Wikipedia:史実または歴史上の人物を扱う『映画・ドラマ』等の記事のガイドライン(仮題)、議論の場所となる Wikipedia‐ノート:史実または歴史上の人物を扱う『映画・ドラマ』等の記事のガイドライン(仮題)を用意した上で、Wikipedia:方針とガイドライン#提案 にあるように「典型的には{{コメント依頼}}テンプレートを使いつつ Wikipedia:コメント依頼 を利用したり」 「Wikipedia:ウィキプロジェクト プロジェクト関連文書/リスト に掲載したり」 するなどして、コミュニティに対して議論に参加するよう呼びかけます。という方法で、コミュニティに公示する。
  4. Wikipedia‐ノート:史実または歴史上の人物を扱う『映画・ドラマ』等の記事のガイドライン(仮題)において議論し、「コミュニティ全体からの高いレベルの合意」を形成する。
となるようです。どなたか、ガイドラインの作成に携わった経験のある方はおられませんか?--Pooh456 2012年1月15日 (日) 01:53 (UTC)[返信]
それほどのことをする必要も無いような気がしますが。今回、問題になったような議論が繰り返されることを懸念して何らかの対処をしておきたいという場合、色々な手だては考えられますが、
  • この井戸端に、結論をまとめておき、いつでも参照出来るようにしておく
  • 既存の方針文書やガイドラインの会話ページに議論の場を移して(たとえば、Wikipedia:独自研究は載せないでしょうか?)、そこで合意事項を結論として出しておく
  • 既存の方針文書やガイドラインの会話ページに議論の場を移して、方針なりガイドライン文書の改訂作業を行う
  • まったく新しいガイドラインを作るべく作業をする
対処方法はもっとあるかもしれませんが、とりあえず。上から下に向かって作業の難易度は上がりますが、効力は格段に上がります。んで、Pooh456さんの提案は一番難易度の高いものに挑もうということであることは認識ください。もっと簡単な方法でいいんじゃないかと思いますけどね。コミュニティには、細かい規則をたくさん作ることへの抵抗があることも御認識ください。今回の件にしても、既存の方針やガイドラインをきちんと認識していれば、対処は明らかだった筈だと考えている方々も少なからずいらっしゃるということも。--おーた 2012年1月15日 (日) 02:38 (UTC)[返信]
コメント 井戸端の議論には拘束性が全く無く、何よりも、特に新規の利用者さんにとって探しにくいため(我々でも難儀しますよ!)、他の方策を取りたい所です。新規ガイドラインまたは方針の追加については、これ以上草案を増やしてどうするのだろうと言う感があります。Wikipedia:独自研究は載せないが肥大化する、方針の更新は避けたい、等のご意見もあるのでしょうが、独自研究の例として「何が除外されるか」に本件1項目を追加するのがやはりよいのではないかと考えています。先日も申し上げましたが、本件はつまるところ「史実・伝記・事件・ノンフィクション等を題材とした創作作品において、事実と作品との差異を編集者が独自にあげつらうことは独自研究だ」という話であり(映画・ドラマ等映像作品に限った話ではないと思います)、適用対象はかなり広汎なものです(改めて書いてみて、なんでこんなことをわざわざ書いておかないといけないんだと少し思ってしまったことも事実ですが、将来的にも続くであろう混乱を防ぐためにはやむを得ない感があります)。実際の文書の改訂が紛糾して難しいのであれば、次善の案としてはWikipedia‐ノート:独自研究は載せないでの合意および纏めでしょうか。井戸端よりは探しやすい感があります。--Hman 2012年1月15日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
ウィキペディアのルールは基本的に慣習であって、各種ガイドラインはそれを成文化してあるに過ぎず、井戸端の議論に拘束性はないと断じるのはいかがなものかと思います。それはさておいても初心者に不親切というのは妥当なので、おーた氏やHman氏が挙げられるように既存のガイドラインに情報を付加する、その場合、それはDwy氏が挙げた英語版にある国連の例などがわかりやすかったと思います。--EULE 2012年1月15日 (日) 09:37 (UTC)[返信]

(インデント戻します)早速のご助言ありがとうございました。。Hman氏が、非常に問題点を指摘された文章を記述されていますので、そちらを借用させて頂きまして、草案をこのように変更します。

史実・伝記・事件・ノンフィクション等を題材とした創作作品の内容を解説するウィキペディアのページにおいて

  • 時代考証や設定考証が弱いと思われる部分に対し、編集者が広く流布・認知されていない外的な観点や情報を、本文内で独自に解説・指摘する行為は、『独自研究』に抵触する行為であるので記述不可とする。
  • 例外として、時代考証や設定考証の差違について、専門家・著名人が新聞・書籍・雑誌、インターネット等の公の媒体上で指摘し、内容の出典が担保される場合、出典付きで説明する記述を本文に書き加える事は許容する。

と記述を変更します。またEULE氏のご助言を参考として、提案者としては今回の議論をWikipedia‐ノート:独自研究は載せないのノートページに議論の場を移し、上記草案の内容の合意形成・本文に記述を書き加える事を最終目標としたいと思います。提案者の1人であるPooh456氏を初めとして、様々な皆様のご助言・ご提案・ご指導には感謝致します。引き続きWikipedia‐ノート:独自研究は載せないのノートページ上にての論議参加を宜しくお願い致します。

先述致しましたが、今回の問題点に関し、各ページローカルルールや現行成文ルールの解釈によって対応され、『裁量』に任されてきた問題点を、活発に意見交換をなされ『草案成立』までに至った事は、ウィキ日本語版では過去なかった事だと思われます。 再度討論に参加頂いた皆様方に深く感謝致します--男梅 2012年1月16日 (月) 02:12 (UTC)[返信]

んー。少し焦り過ぎてませんかね。でも、続きはWikipedia:独自研究は載せないのノートに書きましょう。

ただ、井戸端での議論を終える前に、少し書いておきたいのです。今回の議論はたいへんに実りが大きかったとは思いますが、この事例と似たような話は、私のさほど豊富でもないWikipedia体験の中でも、ゴロゴロあります。書き出せば、、、

  • 史実を基にしたり、歴史上の事物をモデルに用いた作品を解説する記事において、作品中の描写と史実との差異について細かく列挙すること(今回の事例)
  • リメイクが行われたり、小説から映画化されるなどの異なるジャンルの作品に移し替えられた際の新旧作品の異同について細かく列挙すること(登場人物の差し替え、性格の変更、新しいエピソードの付加、台詞の変化など)
  • 制作時の細かいエピソードを列挙すること(映画のパンフレットや雑誌に載っているような、「こぼれ話」の類)
  • 作品中に描かれた事物についての細かな考察を列挙すること(台詞上では左利きの人物が、画面上では右利きに描かれていることを指摘するなど)

などです。募れば、似たような事例はもっと出てくると思いますが、今はその方向に進むつもりはありません。これらの編集が問題になるときの議論は、大体似たようなもので「出典があるからいいだろう」「二次資料を出せ」「作品を観れば分かるじゃないか」「トリビア過ぎる」みたいなことを言い合うというのがお定まりのパターンでした。おそらく、この種の編集に走るメンタリティは大体似たようなものなのでしょう。執筆者御自身の知るいろんな知識やデータを少しでも盛り込もうと一生懸命になるあまり、記事の主題がどこかに飛んでしまって記述が細かくなり、執筆した記事を守りたい一心で「このルールに従っているのに、なぜその別のルールで否定するんだ」みたいな議論に持ち込もうとなさるのです。

今回は、最初の事例に限定することが効を奏したのかある程度の合意には辿り着いていますが、私が例に挙げた二番目以降の話も問題が上がるたびに、似たような議論になるんだろうか、その度に方針文書やらガイドラインを弄り続ける話になるんだろうかと思うと頭が重いのです。映画やTVドラマなどの執筆に関わるガイドラインなどで、こうしたWikipedia:独自研究は載せないなどの既存の方針文書や草案を引用しながら「こうい う記述は、「テーマに沿った概要」を記述することにならず、過度に一次資料に頼り、知らず知らず情報の合成による独自研究になりやすく、しばしばやっかいな紛争を起こしてしまいます。信頼のおける二次資料に、そのこと自体が書かれていない限りは記載を控えましょう」というような文章を、書いておくのが理想かなあとは思うのですが、、、--おーた 2012年1月16日 (月) 12:56 (UTC)[返信]

コメントand/or編集参加のお願い[編集]

こちらの議論に参加あるいはウォッチされていた方にお願いします。聯合艦隊司令長官 山本五十六におけるこの編集の是非についてノート:聯合艦隊司令長官 山本五十六#映画の設定について史実を持ち出し指摘・記述する事の是非について--まとめにコメントいただけないでしょうか。

私としては、こちらの議論ならびにWikipedia‐ノート:独自研究は載せない#『映画の内容を紹介するページにおいて、史実を持ち出し指摘する記述する事の是非』ルール作りの合意形成にご協力下さいノート:聯合艦隊司令長官 山本五十六#映画の設定について史実を持ち出し指摘・記述する事の是非について--まとめの議論によって、「映画の設定に関する出典」+「史実に関する(別の)出典」では「独自研究」になってしまうこと、「時代考証や設定考証の差異について直接言及する出典」が要求されることについて十二分に合意が成立していると思うのですが、Pooh456さんから「強行編集」であるとして差戻しを受けています。

あるいは、既に充分議論が尽くされており今さら特にコメントすることもないという方は(私自身はそういう認識です)、単純にPooh456さんの差戻しを再度差戻ししていただいても良いかと思います。(さらに議論することがあるなら別ですが、単にPooh456さんを納得させるだけなら、100の言葉を費やすより(これまでの長い長い議論でもPooh456さんを納得させることができませんでした)3rrの壁に当ててやる方が話が早いかもしれません)--Dwy会話2012年3月4日 (日) 11:03 (UTC)[返信]

Dwyさんのご意見である『再度差し戻し』に賛成します。--男梅会話2012年3月12日 (月) 18:30 (UTC)[返信]