利用者:山本山815

Wikipedia:バベル
この利用者はウィキペディアにおける包摂主義者です。
この利用者はウィキペディアにおける検閲に反対しています。
この利用者はMicrosoft Windowsを使用してウィキペディアに寄稿しています。
この利用者は主にGoogleをインターネット検索に使用しています。

プロフィール

関西出身

社会学学士。しかし、ミシェル・フーコー吉本隆明ソシュール大澤真幸ぐらいしか知らない。

最近の関心事 有吉弘行ベッキーPerfume世界の果てまでイッテQ!アメトーク検索ちゃん爆問学問上杉隆青山繁晴

好きな映画 復讐するは我にあり青春デンデケデケデケ無能の人オールドボーイ鬼が来た!菊豆ゾディアック

方針

正確で、深淵な思想 情報は捻じ曲げるな!

深く考えず、表層しか見ていなければ、wikipediaは薄っぺらいものとなり、情報は捻じ曲げられれば腐臭がたちこめ、誰も寄り付かなくなるでしょう。

私達が欲しいのは、生で本当の情報のはずです。 それらを隠蔽することは、wikipediaにとって有益ではないでしょう。

あと、情報は積み重ねと、少しずつの検証によって正確さに近づいて行きます。


開かれたWikipediaを目指す

まぁ、一人で目指してもしょうがないのですが、その為に

  1. 興味・知識のないページをクロールして、むやみに編集・審議に参加しない
  2. ルールは守らなければならないが、ルールを振りかざさない
  3. そのページを訪れた参加者に礼節を持ち、議論を重ね合意を見出す
  4. 合意への是非は、外部の大多数に求める
  5. 性急に編集しない

ことを目標にします。


削除依頼などの興味・知識がないページを、「議論されている」というだけでそれに参加するという事は、内容についての深い議論が出来ないし、それは得てして「ルールのみ」の議論になると思うからです。 また、(肯定的にしろ、否定的にしろ)そのページ内容に興味・知識がなければ、「中立的な観点」であるかどうか判断出来ないと、私は考えるているからです。

「ルール」は「手段」であって、「目的」ではありません。 「ルール」は重要ですが、Wikipediaの目的は、「検証可能性」がありWikipedia:検証可能性)、「中立的な観点」を踏まえる「すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない」)(Wikipedia:中立的な観点)という「ルール=基本方針」によって書かれた、「様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる”百科事典”を作ることです」Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと)だと思われます。


そして、「ウィキペディアは民主主義ではありません。合意は議論によって決まります。多数決で決まるわけではありません。」Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)ということです。もちろん次善の策として多数決も提唱されていますが、求められることは合意形成への議論の深化です。

合意するためには相手の考えをよく理解し、相手の立場になって考え、相手にも同じ態度が求められ、相互理解の進行によってやっとこさ形成されるものでしょう。 その為には最低限(どんな立場であろうとも)相手への礼儀Wikipedia:礼儀を忘れない)は必要とされます。 


さらに、私は「日常における生活者の実感」(=日常生活で形成される常識)を信じていますので、私の立場の、社会(ここではWikipedia)での正当性は、専門家よりも、外部の皆さんに任せたいと思っています。 その為にも開かれた議論が必要です。

(もちろん個人的見解は捨て去れるわけではなく、他の大多数の人と同じ様に、それが社会的に認められない事をしっかりと認識しながら、ひっそりと(Wikipediaでは記載しないということで)持ち続けることは試みるわけですが…。 そして他者のそんな気持ちにも(なかなか難しいのですが)寛容でありたいとは思っています。)


目的が同じであれば、山の上り方は違って良いはずなのです。


最後の、「性急に編集しない」とは、自戒の言葉です。 出来れば、少し気長に編集出来ればと思うようになりました。 なかなか難しいのですが、時が経てば、受け入れられる場面が多く出てくるかもしれません。


その項目に詳しい人物を歓迎し呼び込め!

私自身、編集前はWikipediaを、「よく分からない項目の一番最初に参考にするページ」として使用していました。 割合簡潔にまとまっているし、調べるスピードも速い。そこで得た情報を下地に、次の調べ物に移っていました。

しかし、編集に参加してみて、自身がよく知っている項目を訪れて観て、その情報の不確かさと偏りに愕然としてしまいました。 そして編集を始めると、検証と中立に時間を取られ、とても普通の日常を送りながら作業を進めることの困難さに立ち尽くす思いです。

外の世界には、あの人やあの人のページに行けば、詳細にかつ新発見をもたらしてくれる場所があるというのに、そんな魅力的な記述を進めている人は、どうやらWikipediaの編集に参加してくれていないようです。


その人が興味を持っているすばらしい項目を、進んで外のページでは紹介されています。 彼らはお金にもならないそんな作業をなぜ進んで取り組んでいるのでしょうか? 理由は、そこに喜びがあるからです。


もし、Wikipediaが、そんな彼らの喜びを奪えば、彼らはあほらしくて何も言わずにWikipediaから去って行くでしょう。 それで構わないという人は多いでしょうが、私がページを回った限りでは、どんどんと「本当に参加して欲しい人が退場して行っている」という印象を持ってしまいました。

(この感想は、議論していたページについての感想ではないので、念の為)


その項目に詳しい人を歓迎して呼び込め!

とまぁ、私は心の中で叫んでいます。


出来れば、ふらっと訪れた生活者である参加者が、抵抗感なく議論や編集に参加出来るWikipediaであることを願っています。

覚書き