足代弘訓

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足代弘訓の墓所(三重県伊勢市、2016年11月)

足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日1785年1月6日) - 安政3年11月5日1856年12月2日))は、日本江戸時代後期の国学者歌人。号は寛居(ぬたい)。通称は式部・権太夫。父は伊勢外宮祠官足代弘早。伊勢国の人。

伊勢内宮の荒木田久老国学を学び、久老の没後は本居春庭本居大平の門に入った。伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。京阪江戸に出て多くの文人と交流している。神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。

門下に正住弘美志田義貫生川正香白井重固渡辺政香。友人に大塩平八郎

作歌