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橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12月23日 - 昭和45年(1970年)3月15日)は、日本海軍の軍人(最終階級は海軍大佐)、実業家。東京市渋谷区出身。
首相を務めた橋本龍太郎の伯父にあたる。
日本麦酒社員橋本卯太郎、マツの二男として生まれた。
大正9年(1920年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。海軍大学校選科学生として無線兵器研究のため派遣され、昭和3年(1928年)東北帝国大学工学部を卒業。以後、呉海軍工廠電気部員、海軍通信学校教官、海軍艦政本部員、海軍技術研究所員、独乙瑞典駐在並に駐在武官、沼津海軍工廠無線部作業主任等歴任。
戦後、寿電業社長、六興電気副社長などを務めた。
- (岡山県総社市、東京都渋谷区)
- 実家
- 父 卯太郎(実業家・大日本麦酒の元常務)
- 父橋本卯太郎について、『明治大正人物史』には「明治二年三月生る。岡山県人橋本源三郎の長男なり。同三十一年養兄富平方より分れて一家を創立す。幼より沈着誠実、悠々として迫らざる態度は大人の風ありて、その大成を嘱望せらる。長じて東京高等工業学校に学び、二十七年同校機械科を卒業するや、直ちに大日本麦酒株式会社に入る。温厚円満の人格と、機宜に当る手腕とは君をして工務部長に累進、更に常務取締役に挙げしめ、現にその任にありて活躍しつつあり。書画骨董に趣味を有し、閑日月を活動の間に求むるところ奥床しとも云ふ可し。」とある。
- 母 マツ(熊本県、軍人石光真清、陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪)
- 石光家は旧藩時代、熊本藩主細川家に仕えた武家だった。石光家の身分は軽かったが、細川家が肥後入国の時からお供をした家柄であり、代々殿のお側に奉仕していたから特別の取り扱いを受けていた[1]
- 兄
- 宇一(学者・東京高等工業学校長、科学技術庁金属材料研究所初代所長)
- 弟
- 自家
- 妻 香子(佐賀県、軍人・陸軍中将大野豊四の長女)
- 長女 郁子
- 二男 巌
- 三男 英継
- 四男 和久
- 五男 竹夫