徳川慶壽
表示
徳川慶壽像 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文政6年3月4日(1823年4月14日) |
死没 | 弘化4年5月7日(1847年6月19日) |
改名 | 房之助、慶壽 |
別名 | 一橋慶寿 |
戒名 | 承休院 |
墓所 | 東叡山寛永寺・凌雲院 |
官位 |
従三位左近衛権中将兼民部卿、参議 贈権中納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 徳川氏(田安徳川家、一橋徳川家) |
父母 | 父:徳川斉匡、母:八木氏 |
兄弟 | 剛之丞、匡時、謙三郎、斉位、慶壽、聰之助、郁之助、松平慶永、慶頼、慶臧、猶姫、愛姫 |
妻 | 直子(徳信院) |
特記 事項 | 尾張藩藩主・徳川斉荘の子・昌丸が跡を継いだ |
徳川 慶壽(とくがわ よしとし[1])は、江戸時代後期の御三卿・一橋徳川家の7代当主[2]。
生涯
文政6年(1823年)3月4日、田安徳川家当主・徳川斉匡の五男として田安邸で生まれる[2][3]。母は八木氏[2]。幼名は房之助[2]。
天保9年(1838年)5月24日、一橋徳川家の家督を継ぐ(「系譜(田安徳川)」)[4]。同年9月25日、元服し、将軍徳川家慶から偏諱を受けて慶壽と名乗り、従三位左近衛権中将兼民部卿に叙任される[2][4][3]。同年11月15日、一橋邸へ移る[2][4]。
天保12年(1841年)12月2日、伏見宮貞敬親王の娘・直子と婚姻する[2][3]。
弘化3年(1846年)12月1日、参議に任じられた[2][3]。
弘化4年(1847年)5月7日、25歳で死去した[4][2][3]。法号は承休院[2][3]。東叡山寛永寺・凌雲院に葬られた[4]。
嘉永6年(1853年)2月10日、権中納言が追贈された[6][3]。