小倉屋山本
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本店所在地 |
日本 〒542-0081 大阪府大阪市中央区南船場4-10-26 |
設立 |
1954年(昭和29年) 創業 1848年(嘉永元年) (「新町橋小倉屋」) |
業種 | 食料品 |
事業内容 | 昆布及び昆布加工製品の製造・販売 |
代表者 | 山本博史(代表取締役社長) |
資本金 | 6100万円 |
従業員数 | 217名(平成25年3月1日現在) |
関係する人物 | 山崎豊子 |
外部リンク | http://www.ogurayayamamoto.co.jp/ |
株式会社小倉屋山本(おぐらや やまもと)は大阪府大阪市中央区に本社を置く昆布の加工・販売会社である。
創業は嘉永元年(1848年)[1]の老舗。「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至っている。尚、現在使用されている店のマークは、本家の商標に小倉の象徴であるもみじをあしらった、暖簾分けの経緯を物語るものとなっている。
概略・特長
歴史
小倉屋山本の総本家である松原久七は天保時代に、びんづけ油商の奉公人として奉公していたが、主家が一子相伝であったため、近隣にある昆布問屋に目をつけ昆布商を創業する[3]。さらに暖簾分けを許された初代山本利助が嘉永元年(1848年)、大阪新町橋のたもとに「新町橋小倉屋」を立ち上げたのが始まりである[2]。 大正から昭和にかけて当時、登場したばかりの百貨店の食料品部とも取り引きを始める[2][1]。 大阪大空襲で全焼した店を復興するにあたり、屋号を「小倉屋山本」と改名する[2]。 昭和24年には小倉屋山本の看板となる塩吹き昆布「えびすめ」を発表[1][2]。 やがて山崎豊子の小説「暖簾」が映画化され、知名度が上がる[2]。
昆布へのこだわり
昆布本来の旨み「昆布の真正」を届けるという理念のもと、小倉屋山本は昆布以外の海産物への展開をあえて行わず、昆布一筋の姿勢を貫いている。 北海道道南産の真昆布[4]。その中でも白口浜天然真昆布、黒口浜天然真昆布の2種類を多用。 昆布漁の最中には何度となく産地を訪れ、その年の出来を見極めながら、総生産の約40%を小倉屋山本一社で仕入れている。 しかしながら、天然ものの出来不出来は気候などに左右され、年ごとにばらつきが出る。これらを補うために、3代目山本利助が養殖事業を援助。その後、浜にて研究を重ね、安定供給が実現された。
その他関連
3代目山本利助の実妹であり、幼い頃から船場で育った小説家山崎豊子。処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなった昆布屋を舞台としている[1]。明治の後半に淡路島から出てきた15歳の吾平が、大阪船場の昆布商「浪花屋」で無我夢中に働き、丁稚から手代、番頭へと昇格。やがて暖簾分けを許され、商人の命であり、心のよりどころでもあるのれんを守りながら、親子二代が商売にいそしむ様が生き生きとつづられている。森繁久弥主演の映画化の他、テレビや舞台にもなった[5]。
主な製品
- えびすめ - 高級塩昆布を定着させた立役者であり、今や大阪を代表する名物[1]
- にしき木
- 有味草塩こんぶ
- 有味草山椒こんぶ
- 伝承の味椎茸こんぶ
- 朝霧
- 梅入り塩ふき昆布
- 椎茸入り塩ふき昆布
- ちりめん山椒
- 夕霧
- 山海の味
- 昆布しょうゆ
沿革
- 嘉永元年(1848年)初代山本利助が順慶町(新町橋付近)にて創業。
- 明治23年(1890年)内国勧業博覧会で賞牌受賞(この年までに宮内省御用達・宮内庁御用達に)
- 昭和4年(1929年) 天皇陛下賜天覧御買上
- 昭和20年(1945年)空襲により小倉屋焼失
- 昭和23年(1948年)松屋町筋にて再興(戦後1号店)
- 昭和24年(1949年)東京へ進出「えびすめ」発売
- 昭和27年(1952年)阪神百貨店の「甘辛のれん街」へ出店
- 昭和29年(1954年)「えびすめ」農林大臣賞受賞[2] 法人組織に変更(株式会社 小倉屋昆布店)
- 昭和32年(1957年)山崎豊子、小説「暖簾」発刊
- 昭和63年(1988年)株式会社小倉屋昆布店を株式会社小倉屋山本に社名変更(小倉屋山本グループ統一社名変更)
- 平成5年(1993年)オーガニックビル(小倉屋山本本社ビル)新築完成
- 平成10年(1998年)創業150周年
- 平成20年(2008年)モンドセレクションで「朝霧」「昆布しょうゆ」金賞受賞[6]