浄法寺五郎
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浄法寺 五郎(じょうほうじ ごろう、1865年5月22日(慶応元年4月28日[1]) - 1938年(昭和13年)1月20日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]下野国(現栃木県)出身[1][2]。1887年(明治20年)7月[3]、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し歩兵少尉に任官[1][2]。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校に入学するが、日清戦争開戦のため1894年(明治27年)7月に中退[4]。戦後、1896年(明治29年)2月、陸大に復校し、1897年(明治30年)12月、陸大(11期)を優等で卒業した[1][4]。参謀本部に配属[4]。ドイツ駐在を経験した[2][4]。
1904年(明治37年)2月、オーストリア公使館付武官となる[2]。1905年(明治38年)12月、参謀本部付に転じ、陸大教官に異動[2]。1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進し第17師団参謀長に着任[2]。
1910年(明治43年)7月、第1師団参謀長に移る[5]。1912年(明治45年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第29旅団長となる[1][2]。青島の戦いに参戦[1]。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀長[1][2]。1915年(大正4年)7月、歩兵第10旅団長に移り、1916年(大正5年)3月、近衛歩兵第2旅団長に就任[1][2]。
1917年(大正6年)8月、陸軍中将に進み陸大校長に着任[1][2]。1919年(大正8年)4月、第20師団長に親補された[1][2]。1922年(大正11年)2月に待命、同年5月、予備役に編入された[1][2]。
栄典
[編集]- 位階
- 1890年(明治23年)10月15日 - 正八位[6]
- 1892年(明治25年)1月27日 - 従七位[7]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[8]
- 1912年(明治45年)6月21日 - 正五位[9]
- 1919年(大正8年)8月11日 - 正四位[10]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸軍将官辞典』382頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』78-79頁。
- ^ 『市ヶ谷台に学んだ人々』20頁。
- ^ a b c d 『日本陸海軍総合事典』第2版、548頁。
- ^ 『官報』第8110号、明治43年7月5日。
- ^ 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
- ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8702号「叙任及辞令」1912年6月22日。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」1919年8月12日。
- ^ 『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。