立花茂虎
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 正保元年(1644年) |
死没 | 元禄14年3月13日 (1701年4月20日) |
別名 | 幼名:鶴寿、通称:帯刀、号:好白 |
戒名 | 国融院殿洞雲一花大居士 |
墓所 | 宗永寺 |
藩 | 筑後国柳河藩(藩主家一族) |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花忠茂、母:光行太郎左衛門の娘 |
兄弟 | 千熊丸、茂虎、鑑虎、茂辰、矢嶋茂堅[1]、貞晟、矢嶋虎重[2] |
妻 | 正室:清光院[3]、継室:栄林院[4] |
子 | 茂高、茂明、任利 |
特記 事項 | 立花両家の一つ立花帯刀家祖。 |
立花 茂虎(たちばな しげとら)は、江戸時代の筑後国柳河藩藩士。藩主家立花氏一族で、立花両家の一つである立花帯刀家の祖。2代目藩主立花忠茂の庶長子(三男)で、実母は父の側室である光行氏。異母弟立花鑑虎は3代目藩主。諱は茂虎。石高2300石。幼名は鶴寿(丸)。通称は帯刀。号は好白。
略歴
正保元年(1644年)、柳河藩藩主立花忠茂の子として生まれる。庶子でかつ父の嫡子である弟の鑑虎がいたので、通常は家臣として弟より末席に位置づけられるが、寛文4年(1664年)、父の忠茂は隠居にあたって、この状況に配慮して京都大徳寺和尚に依頼し、茂虎を将来同寺碧玉庵住職にするように依頼したが、茂虎本人がこれを拒否したため、父は怒って茂虎を家臣の立花九郎兵衛預かりとした。
茂虎の不遇を痛む弟の鑑虎より寛文12年(1672年)に領内山門郡中山村に采地与えられる。延宝3年(1675年)に父が死去した翌年(1676年)に加増され、優遇された。こうして立花政俊を家祖とする立花内膳家とともに藩の信望を集めた立花両家の一つ立花帯刀家が創設される。「延宝九酉年知行取無足扶持方共」(1681年頃の資料)の組外筆頭に「高貮千三百石 立花帯刀様」と見える。
元禄14年3月13日(1701年4月20日)に死去。戒名は国融院殿洞雲一花大居士。
なお元禄11年(1698年)に生まれた孫の立花貞俶は後に江戸幕府旗本寄合席の立花貞晟の養子となったが、享保6年(1721年)5月の第4代藩主・立花鑑任の死により、その末期養子となり、柳川藩5代藩主となる。