伴国道
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 神護景雲2年(768年) |
死没 | 天長5年11月12日(828年12月22日) |
官位 | 従四位上[1]、参議 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 大伴宿禰→伴宿禰 |
父母 | 父:大伴継人、母:不詳 |
兄弟 | 国道 |
妻 | 不詳 |
子 | 善男、河男 |
伴 国道(とも の くにみち)は、平安時代初期の公卿。左少弁・大伴継人の子。官位は従四位上・参議。勲等は勲六等[2]。 比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺を建立。
経歴
延暦4年(785年)父・継人が藤原種継暗殺事件に関与し処刑されたため、国道も連座して佐渡国への流罪となる。佐渡では国道が聡明で優れた人物であるとして、国守は彼を優遇して師友と仰ぎ、問題が発生した際には対処を決定させ、公文書も作成させるなど、行政を補佐させたという。桓武朝末の延暦22年(803年)恩赦により平安京に戻る[3]。
嵯峨朝初頭の弘仁2年(811年)陸奥少掾に任ぜられる。同年に行われた征夷将軍・文室綿麻呂による幣伊・爾薩体を対象とした蝦夷征討に参画したか。陸奥権介を経て、弘仁4年(813年)従五位下に叙爵する。その後は宮内少輔・民部少輔・伊予介などを歴任し、内官(在朝官人)と外官(地方官)の両方で優れた業績を残した[3]。またこの間の、弘仁10年(819年)に従五位上に昇叙されている。
嵯峨朝末の弘仁13年(822年)正五位下・右中弁に抜擢されると、翌弘仁14年(823年)4月に淳和天皇の即位に伴って従四位下・左中弁と弁官を務めながら急速に昇進し、同年5月には参議兼右大弁に任官して公卿に列した。また、淳和天皇の即位に際して、天皇の諱(大伴)を避けるために大伴宿禰姓から伴宿禰姓へ改姓している。
天長2年(825年)従四位上に昇叙されると共に、按察使と武蔵守を兼帯して東国の地方統治に携わった。天長5年(828年)陸奥按察使を兼ねて陸奥国に赴任するが、同年11月12日に赴任先で卒去。享年61。最終官位は参議従四位上。
官歴
注記のないものは『六国史』による。
- 延暦4年(785年) 日付不詳:流罪(佐渡国)
- 延暦22年(803年) 11月15日:恩赦
- 弘仁2年(811年) 正月11日:陸奥少掾[2]
- 弘仁3年(812年) 正月12日:陸奥権介[2]
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁4年(813年) 正月7日:従五位下
- 弘仁6年(815年) 正月12日:宮内少輔
- 弘仁7年(816年) 正月:伊予介[2]
- 弘仁10年(819年) 正月7日:従五位上
- 弘仁12年(821年) 9月26日:民部少輔[2]
- 弘仁13年(822年) 2月:右中弁[2]。10月1日:正五位下
- 弘仁14年(823年) 4月19日:従四位下、左中弁[2]。4月28日:大伴氏から伴氏へ改姓。5月14日:参議兼右大弁[2]
- 天長2年(825年) 正月4日:従四位上。正月11日:兼按察使武蔵守、右大弁勘解由長官如元[2]
- 天長3年(826年) 正月21日:兼相模守[2]。3月3日:兼武蔵守[2]
- 天長5年(828年) 2月:兼陸奥按察使[4]。11月12日:卒去(参議従四位上)