竹本吉夫
竹本 吉夫(たけもと よしお、1925年(大正14年)5月26日 - 2002年(平成14年)11月2日)は、日本の内科医、内科学者。医学博士。日本赤十字秋田短期大学初代学長。秋田赤十字病院名誉院長。元日本病院会副会長・顧問。
略歴
[編集]1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業[2][3]。
1950年(昭和25年)6月から新潟県長岡市旭町1丁目の坂井医院に勤務[4]、新潟市流作場2439番地(現 新潟市中央区万代2丁目1番1号)の新潟トヨタ診療所に勤務[5]。
1952年(昭和27年)10月に新潟大学医学部第一内科に入局[注 1]、1958年(昭和33年)3月に新潟大学から医学博士号を取得、7月に医局長に就任[7][8]、講師を経て1965年(昭和40年)10月に助教授に就任[8][9][注 2]。
1967年(昭和42年)10月に秋田赤十字病院第8代院長および秋田赤十字看護専門学校校長に就任[2][3][注 3]、1996年(平成8年)4月に日本赤十字秋田短期大学初代学長に就任[3][11]。
2002年(平成14年)11月2日午前10時40分に新潟市内の老人保健施設で胃癌のため死去[12][13]。新潟市内の老人保健施設には金属工芸家の宮田亮平が制作した竹本吉夫の胸像が立っている[14][15][16]。
新潟大学医学部第一内科の助教授の時、新潟大学医学部学士会(有壬会)の幹事長に無理やり説得されて秋田赤十字病院の院長として同病院の再建をすることになり、その結果、全てを一新して近代的な病院に築き上げた[1][17][18]。
秋田赤十字看護専門学校校長および日本赤十字秋田短期大学開設準備室室長として地域医療の確保・向上と看護師の養成に尽力した[19]。
1989年(平成元年)に日本診療録管理学会(現 日本診療情報管理学会)の初代理事長に就任すると、診療情報管理教育を体系化し専用教材を作成して診療情報管理士の教育・養成の基礎を築いた[17]。
音楽療法の実践・研究や高齢者が安住できる環境整備などに取り組んだ[3]。
役職
[編集]- 1970年(昭和45年)4月 - 日本病院会代議員[17][20]
- 1977年(昭和52年)4月 - 日本病院会理事[17][20]
- 1983年(昭和58年)4月 - 日本病院会副会長[17][20]
- 1989年(平成 1年)4月 - 日本病院会理事[20]
- 1996年(平成 8年)4月 - 日本病院会顧問[20]
栄典・表彰
[編集]- 1984年(昭和59年) 5月 - 厚生大臣表彰「日本病院会の事業の推進、全国病院の発展向上」[21]
- 1984年(昭和59年)11月藍綬褒章[22] 3日 -
- 1991年(平成 3年)10月 - 外務大臣表彰「国連事業における貢献」[21]
- 1996年(平成 8年) 4月29日 - 勲三等瑞宝章[23]
著書
[編集]- 『夢とロマンと病院と 念ずれば花ひらく』私家版、1996年。
- 『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』「竹本吉夫先生追悼遺稿集」発行発起人会、2003年。
- 『竹本吉夫先生翰演集』石塚睦(私家版)、2004年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『日本病院会雑誌』第33巻第1号、165頁。
- ^ a b c 『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』523頁。
- ^ a b c d e 『現代 物故者事典 2000〜2002』374頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』536頁。
- ^ 『日本醫籍錄』第21版。
- ^ 『日本醫籍錄』第24版。『日本醫籍錄』第26版。
- ^ 『新潟大學醫學部五十年史』586頁。
- ^ 『新潟大學醫學部五十年史』589頁。
- ^ a b 『新潟大学医学部百年史』219頁。
- ^ 『新潟大学医学部七十五年史 下巻』151頁。
- ^ 『病院』第54巻第7号、636頁。
- ^ 『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』524頁。
- ^ 『新潟日報』2002年11月4日付朝刊、5面。『新潟日報』2002年11月10日付朝刊、4面。
- ^ 竹本吉夫氏死去/日本赤十字秋田短大学長 | 全国ニュース | 四国新聞社
- ^ 『竹本吉夫先生』|AndoNoburo.net‐眼科勉強会・研究会・講演情報(安藤伸朗)
- ^ 竹本吉夫の胸像 - まちクエスト
- ^ 今日は良いお天気です! | ジェロントピア新潟
- ^ a b c d e 『日本病院会雑誌』第50巻第1号、13頁。
- ^ 『病院』第37巻第12号、972頁。『青山同窓会報』第76号、6面。
- ^ 『日本病院会雑誌』第50巻第1号、14頁。
- ^ a b c d e 『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』534頁。
- ^ a b 『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』535頁。
- ^ 「褒賞」『官報』号外第128号、14頁、大蔵省印刷局、1984年11月5日。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』号外第108号、9頁、大蔵省印刷局、1996年4月30日。
参考文献
[編集]- 「秋田のあれこれ」『日本病院会雑誌』第33巻第1号、165-168頁、竹本吉夫[著]、日本病院会、1986年。
- 「竹本吉夫日本病院会顧問を偲んで」『日本病院会雑誌』第50巻第1号、13-14頁、中山耕作[著]、日本病院会、2003年。
- 「竹本𠮷夫先生の略歴と活動歴」『オリオンの彼方に: 故 竹本𠮷夫先生追悼遺稿集』523-536頁、「竹本𠮷夫先生追悼遺稿集」発行発起人会、2003年。
- 「竹本吉夫」『現代 物故者事典 2000〜2002』374頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2003年。
- 「竹本吉夫」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』536頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
- 「竹本吉夫」「新潟縣」10頁、『日本醫籍錄』第21版、医学公論社[編]、医学公論社、1954年。
- 「竹本吉夫」「新潟縣」4頁、『日本醫籍錄』第24版、医学公論社[編]、医学公論社、1956年。
- 「竹本吉夫」「新潟縣」4頁、『日本醫籍錄』第26版、医学公論社[編]、医学公論社、1958年。
- 「竹本𠮷夫儀」『新潟日報』2002年11月4日付朝刊、5面、新潟日報社、2002年。
- 「竹本𠮷夫儀」『新潟日報』2002年11月10日付朝刊、4面、新潟日報社、2002年。
- 「第5回日本病院会学会会長秋田赤十字病院院長竹本吉夫氏」『病院』第37巻第12号、972頁、能登彰夫[著]、医学書院、1978年。
- 「第21回日本診療録管理学会長を務める 秋田赤十字病院院長 竹本吉夫氏」『病院』第54巻第7号、636頁、木村明・八木保[著]、医学書院、1995年。
- 『新潟大學醫學部五十年史』新潟大学医学部五十周年記念会[編]、新潟大学医学部五十周年記念会、1962年。
- 『新潟大学医学部七十五年史 下巻』新潟大学医学部創立七十五周年記念事業期成会・新潟大学医学部学士会[編]、新潟大学医学部創立七十五周年記念事業期成会・新潟大学医学部学士会、1994年。
- 『新潟大学医学部百年史』新潟大学医学部創立100周年記念事業準備会・新潟大学医学部学士会[編]、新潟大学医学部創立100周年記念事業準備会・新潟大学医学部学士会、2010年。
- 「五十回生同期会 (PDF) 」『青山同窓会報』第76号、6面、上村光司[著]、青山同窓会、2003年。
関連文献
[編集]- 「「健康医学」創刊に寄せて」『健康医学』第1巻第1号、6頁、竹本吉夫[著]、日本人間ドック学会、1986年。
- 「竹本先生とのお別れ会」『日本病院会雑誌』第50巻第3号、119頁、長崎彬[著]、日本病院会、2003年。
学職 | ||
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先代 設立 |
日本赤十字秋田短期大学学長 初代:1996年 - 2002年 |
次代 時光直樹 |
前回 内藤景岳 |
日本病院学会学会長 第29回:1979年9月 |
次回 村田勇 |
前回 宇津典彦 |
日本人間ドック学会学会長 第28回:1987年8月 |
次回 依田忠雄 |
前回 鈴木武雄 |
日本赤十字社医学会総会会長 第25回:1989年10月 |
次回 向野榮 |
前回 大村一郎 |
日本診療録管理学会学会長 第21回:1995年9月 |
次回 山内一信 |