高梨政高
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時代 | 室町時代中期 - 後期 |
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生誕 | 応永25年(1418年) |
死没 | 応仁2年(1468年) |
官位 | 摂津守、刑部少輔 |
氏族 | 高梨氏 |
父母 | 父:高梨教秀[1] |
子 |
泉政重正室、政盛、 法往院(長尾能景正室)? |
高梨 政高(たかなし まさたか)は、室町時代中期から後期にかけての武将。高梨氏は信濃国中野小館[2]の国人。
生涯
[編集]応永25年(1418年)、高梨教秀の子として誕生。室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を受けて政高と名乗る[3]。
長禄3年(1460年)7月、父・教秀が没したため当主となった。この頃の室町幕府は、信濃北半を越後守護・上杉房定に兼任させ、信濃南半守護としては小笠原光康を任じた。当時の幕府は享徳の乱を起こした古河公方・足利成氏と対立関係にあり、成氏と結んでいた高梨政高も討伐目標の一人であった。
寛正4(1463年)、幕府方は政高を討つため、上杉右馬頭(本名不詳)を大将として高梨領に攻め込ませた。政高率いる高梨軍はこれを高井郡高橋[4]で迎え撃った。高梨軍は寡兵にも拘らず勝利し、この際に右馬頭を討ちとったとも云われている。政高はこの戦で、上杉氏に味方した新野朝安や大熊高家らの土豪の領地を手中にし、高梨氏の領土は広大になっていった(なお、敗れた新野氏と大熊氏は上杉氏を頼って越後に逃れ、戦国時代の大熊朝秀はその子孫であるとする説がある[5])。
人物
[編集]政高は京都文化の導入にも努め、公家三条西実隆から「古今伝授」や「伊勢物語」などを贈られ、返礼として高額の礼金を贈っている。
脚注
[編集]- ^ または教秀と政高の間に高梨泰盛を挟むという説もある。
- ^ 現在の長野県中野市。
- ^ のちに子の政盛も同様に一字を賜い、父とされる教秀もかつて義政の父である6代将軍・義教から一字を賜っている
- ^ 中野市西条。
- ^ 片桐昭彦「房定の一族と家臣」(『上越市史通史編2』第3部第1章第2節(上越市、2004年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻 関東上杉氏一族』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-269-8) 2018年,P249-251.
出典
[編集]- 古川貞雄 編『県史20 長野県の歴史』山川出版社、1997年