源信宗
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 延久6年6月30日(1074年7月26日) |
別名 | 院中将(号) |
官位 | 正四位下・備中守 |
主君 | 後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 三条源氏 |
父母 |
父:敦明親王 母:源政隆娘・瑠璃女御 |
兄弟 |
行観、敦貞親王、栄子内親王、 儇子内親王、敦元親王、基平、 敦賢親王、敦昌親王、嘉子内親王、 信子女王、信宗、斉子女王ら |
妻 | 能登守憲清娘 |
子 | 行信、定信、信忠、信慶、宗厳 |
源 信宗(みなもと の のぶむね)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。三条源氏、敦明親王(小一条院)の子。官位は正四位下・備中守。院中将と号した。
経歴
臣籍降下して源朝臣を賜り侍従に任ぜられる。後朱雀朝の長久元年(1040年)に左近衛少将に任ぜられ、翌長久2年(1041年)には昇殿を聴された。その後、長久4年(1043年)右近衛中将、永承5年(1050年)頃に左近衛権中将に任ぜられるなど、後三条朝初頭の治暦4年(1068年)頃まで約30年近くに亘って近衛次将を務めた。
その後、民部大輔・備中守を歴任し、位階は正四位下に至る。白河朝初頭の延久6年(1074年)6月30日卒去。
人物
勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』に和歌作品1首ずつが採録されている[1]。
官歴
- 時期不詳:侍従
- 長久元年(1040年) 12月21日:右近衛少将[2]
- 長久2年(1041年) 11月4日:昇殿[3]
- 長久4年(1043年) 9月19日?:右近衛中将[2]
- 永承5年(1050年)頃:左近衛権中将[2]
- 康平2年(1059年)頃:見正四位下[2]
- 治暦4年(1068年) 4月19日:見左近衛権中将[4]
- 時期不詳:民部大輔・備中守[5]
- 延久6年(1074年) 6月30日:卒去[5][6]