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于静遠

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于静遠
『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊
プロフィール
出生: 1898年光緒24年)
死去: 1969年11月12日
中華人民共和国
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府遼陽州
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 于靜遠
簡体字 于静远
拼音 Yú Jìngyuǎn
ラテン字 Yü Ching-yüan
和名表記: う せいえん
発音転記: ユー ジンユエン
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于 静遠(う せいえん)は中華民国満州国の政治家・軍人。

北京政府奉天派に属し、後に満州国に参加した。

任樸。父は于冲漢

事績

スイス陸軍士官学校を卒業。帰国後は奉天派に属し、省立東北大学教授、東三省特別区警察第三総署処長、東三省鉄路護路軍総司令部参謀、東北船政局顧問、東三省特別行政区行政長官公署参議を歴任した[1]

1931年民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発後に、于静遠は奉天自治指導部顧問兼自治訓練処処長に就任した[1]。満州国が建国された1932年大同元年)3月からまもなく、阮振鐸満州青年連盟山口重次小澤開作とともに満州協和党(後の満州国協和会)を結成した[2]。同年夏、満州協和党が改組され、満州国協和会が成立すると、于は同会総務処長となっている[1]1933年12月、駐日公使館参事官に就任した[3]1937年康徳4年)3月3日、満州協和会中央本部長に任ぜられている[4]

1937年康徳4年)7月、国務院臨時訂立条約準備委員会委員に任命される[1]。翌1938年(康徳5年)2月10日、新京特別市市長に就任した[5]。8月、国務院企画委員会一般委員となる[1]1940年(康徳7年)5月16日、産業部大臣に就任した[6]。同年6月1日、産業部が興農部に改組され、そのまま興農大臣に留まっている[7]1942年(康徳9年)9月28日、民生部大臣となった[8]1944年(康徳11年)12月17日、経済部大臣に異動している[9]

満州国滅亡後、于静遠はソ連に逮捕、連行される。シベリアで拘束された後、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。1966年、特赦を受けて釈放された。1969年11月12日、死去。享年72[10]

  1. ^ a b c d e 徐主編(2007)、32頁。
  2. ^ 山室(2004)、199頁。
  3. ^ 「于静遠氏駐日参事官に」『東京朝日新聞』昭和8年(1933年)12月3日
  4. ^ 「于氏協和会部長に」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)3月4日
  5. ^ 「満州国人事異動」『東京朝日新聞』昭和13年(1938年)2月11日夕刊
  6. ^ 「満州国首脳異動 経済大臣ら十九氏更迭」『大阪毎日新聞』昭和15年(1940年)5月17日。
  7. ^ 「満州国異動」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)6月1日。
  8. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。
  9. ^ 「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。
  10. ^ 王ほか主編(1995)。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1995年。ISBN 7805074135 
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
徐紹卿
新京特別市長
1938年2月 - 1940年5月
次代
金名世
先代
呂栄寰
産業大臣
1940年5月 - 6月
次代
(興農部に改組)
先代
(産業大臣から改組)
興農大臣
1940年6月 - 1942年9月
次代
黄富俊
先代
谷次亨
民生大臣
1942年9月 - 1944年12月
次代
金名世
先代
阮振鐸
経済大臣
1944年12月 - 1945年8月
次代
(廃止)