山名豊氏
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 通称:七郎、因幡入道、布施左衛門佐 |
別名 | 山名豊高(とよたか) |
官位 | 宮内大輔、左衛門佐 |
幕府 | 室町幕府因幡守護 |
主君 | 足利将軍家 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父:山名教之、養父:山名熈幸 |
兄弟 | 豊之、豊氏、之弘、元之、小太郎 |
子 | 豊時?、智房 |
山名 豊氏(やまな とようじ)は、室町時代の因幡国の守護大名。
生涯
伯耆守護である山名教之の子(次男か)として生まれる。元服時に山名本家当主・山名持豊(宗全)より偏諱(「豊」の字)を受けて豊氏と名乗る。『斎藤親基日記』、『長禄二年以来申次記』などには「実は山名豊之の舎弟」とあり、長禄3年(1459年)4月に死去したとみられる山名熈幸の養子となり、因幡守護職を継承した。
長禄3年12月18日、勝定院に仏事銭30貫文を納めたのが史料上の初見であり、熈幸が死去した後、間もなくして守護職を継承したものと見られる。寛正2年(1461年)8月(『蔭凉軒日録』)には但馬円通寺聚慶軒領因幡国味和郷を押領していたことが伝えられている。この件に関しては寛正元年(1460年)9月にも同様の記事がみえる。寛正6年(1465年)8月の石清水放生会には8代将軍足利義政の御供衆9人の中に「山名七郎」の名がみえるほか、文正元年(1466年)11月の大嘗会においては因幡一国分の課役を受け持っている。
応仁の乱にも因幡守護として山名方に参陣、因幡国内の諸兵3000騎を率いて上洛し、一条大宮などの合戦に従事した。『大乗院寺社雑事記』によれば応仁元年(1467年)6月2日、本家当主の山名宗全や実父・教之らと共に西軍にあったことが伝えられている。『応仁記』にみえる「布施左衛門佐」は豊氏を指すものと見られることから、現在山名勝豊による築城説が疑問視されている布勢天神山城は豊氏が築城したとする説が有力になっている。
没年は不明、文明年間にも「山名七郎」の名が散見されるが、豊氏を指すものなのかは不明である(片岡秀樹は宗全の子の山名豊久も七郎を称しており、文明期の七郎はこちらであるとしている[1])。豊氏の後に守護職を継承した山名豊時(史料上の初見は文明11年(1479年)8月)は勝豊ではなく豊氏の子息とする説がある。また、『山名系図』には子息として「智房」の名がみえるが、詳細は不明である。
脚注
- ^ 片岡秀樹「文明・明応期の但馬の争乱について-山名政豊父子と垣屋氏-」市川裕士 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻 山陰山名氏』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-293-3 P128-129.
参考文献
- 鳥取市編『新修鳥取市史 第一巻 古代・中世篇』(鳥取市、1983年)
- 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』(自費出版、1986年)
- 宮田靖国編『山名家譜』(六甲出版、1987年)
- 若桜町教育委員会編『若桜町埋蔵文化財調査報告第2集 鬼ヶ城遺跡Ⅱ』1991年
- 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』(平凡社、1992年)ISBN 4-582-49032-8