みなと (唱歌)
本作の林柳波による補作詞は著作権の保護期間中のため、日本国著作権法第32条および米国著作権法第107条によりフェアユースと認められる形式の引用を除き、ウィキペディアへの掲載は著作権侵害となります。また、演奏などの著作隣接権についても注意ください。 歌詞全文はTemplate:歌ネットやTemplate:Genius songを使用した外部リンクにより合法的な参照が可能です。 なお旗野十一郎の作詞・吉田信太の作曲については著作権保護期間が終了しました。 |
タイトルの『みなと』については、日本音楽著作権協会(JASRAC)の登録名称を採用している。
概要
1896年(明治29年)に発行された新編教育唱歌集の第三集に収録されている。日本人が作曲した初めての三拍子の曲である。歌の作者及びモデルとなった地域は、有志による調査が始まる1973年(昭和48年)までは明らかになっていなかった。
作詞・作曲・歌詞
後記の調査の結果、作詞旗野十一郎、作曲吉田信太と明らかになった。また、2番の歌詞は元々作られた「林なしたる」の歌い出しの旗野版の他に、林柳波による別バージョン(補作詞)が存在し、林版の方が現在は一般的になっている。JASRACの楽曲管理では、作詞の旗野および作曲の吉田は死去から50年以上過ぎているために著作権が消滅。パブリックドメイン扱いになっている[1]。しかし、補作詞の林は1974年(昭和49年)死去のため、その部分に関しては著作権が存在している[2]。
以下の歌詞は、1番・2番とも著作権が消滅した「旗野十一郎」が作詞した歌詞である。
- 1番
- 空も港も夜ははれて(そらも みなとも よははれて)
- 月に数ます船のかげ(つきに かずます ふねのかげ)
- 端艇の通いにぎやかに(はしけの かよい にぎやかに)
- 寄せくる波も黄金なり(よせくる なみも こがねなり)
- 2番
- 林なしたるほばしらに(はやし なしたる ほばしらに)
- 花と見まごう船旗章(はなと みまごう ふなじるし)
- 積荷の歌のにぎわいて(つみにの うたの にぎわいて)
- 港はいつも春なれや(みなとは いつも はるなれや)
広島市の歌碑
1973年(昭和48年)に全日本海員組合の宮城伸三が広島に赴任してきた時に、ある老人の話「みなとは宇品を歌った歌である」を聞き、調査を行った結果宇品の歌である事を確信。作者も、作詞旗野十一郎、作曲吉田信太、補作詞林柳波であることが明らかになった。また、本土と元宇品を結んでいる暁橋(通称・めがね橋)から見た風景を歌っていることもわかった。
そして、1975年(昭和50年)7月21日に宇品中央公園(元陸軍船舶司令部跡地)に歌碑が建てられた。形は船の煙突を模した物になり、正面に置かれる錨は内外運輸(現・シーゲートコーポレーション)が寄贈。宇品小学校・宇品東小学校・元宇品小学校の当時4年生が、1人1文字ずつ歌詞を書き、当時の広島県知事(当時の広島港の港湾管理者でもある)の宮澤弘が、タイトルの「港」の文字を書いた。
その後、広島市内の防災無線で正午に毎日流されるようになった。また、広島市の広報資料などでも取り上げられている。
写真集
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歌詞で歌ったとされる広島市の暁橋(2011年現在)
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この景色を見て歌詞を作ったとされている(2011年現在)
横浜市の歌碑
2014年6月、神奈川県横浜市中区の「港の見える丘公園」にある神奈川近代文学館の傍の横浜港を見下ろす一等地に、「日本人が初めて作ったワルツ」として「湊」の小規模な歌碑が有志によって建てられた。この場所で作曲されたということでなく、作曲者の吉田信太が横浜市在住で、神奈川県の学校で長らく教鞭を取って、日本有数の横浜港に近かったという由来であるという。[3][4]
脚注
- ^ 旗野十一郎の死去は1908年(明治41年)、吉田信太の死去は1953年(昭和28年)
- ^ 著作権に関するデータはJASRACの作品データベース検索サービスにて確認している
- ^ 日本初のワルツ「港」の作曲碑、港の見える丘公園に 横浜(産経ニュース、2014年6月23日)
- ^ 唱歌「港」の碑、横浜に。作曲家ゆかりで建立(タウンニュース、2014年7月4日)
参考文献
- 広島市広報紙 市民と市政 バックナンバー 平成21年7月15日号 広島港築港120周年 唱歌「港」の風景[リンク切れ]
- うじな通になろう[平成22年度版](うじな通検定実行委員会編・広島市宇品公民館出版)
- 宇品中央公園 碑の横にある説明看板