第五号型水雷艇
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第五号型水雷艇 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 水雷艇 |
艦名 | 番号 |
前級 | 第一号型水雷艇 |
小鷹 | |
次級 | 第十五号型水雷艇 |
要目(竣工時) | |
排水量 | 常備:54トン |
全長 | 垂線間長:33.75m (110ft 9in)[1] |
全幅 | 3.35m (11ft 0in) |
吃水 | 0.90m (2ft 11in) |
機関 | 汽車缶1基 直立式2気筒2段膨張レシプロ1基 1軸、525馬力 |
速力 | 20ノット |
航続距離 | 10ノットで1,030海里 |
燃料 | 石炭:8.45トン |
乗員 | |
兵装 (1894年) |
47mm保式単装速射砲1門 36cm魚雷発射管旋回式1門 同固定式1門 |
同型艦 | 14隻 |
第五号型水雷艇(だいごごうがたすいらいてい、旧字体:第五號型水雷艇)は、日本海軍の水雷艇。同型艇14隻。
概要
1885年(明治18年)度にフランス・シュナイダー社に発注、造船所の名をとり「クルーゾー(Creusot)型」と言われている。ルイ=エミール・ベルタンの設計による。9号まではフランスで建造、組み立てを小野浜造船所で行ったが、第10号以降は建造も小野浜で行われた。また機関の自力製造も行われるようになった。原型はフランス海軍の第75号型水雷艇であるが、転覆事故が続発し本艇の建造中に改正がされている。
各艦は日清戦争に参戦。1895年2月5日未明の威海衛攻撃には第5号などが参加した。第6号の艇長は後の内閣総理大臣鈴木貫太郎大尉だった。この時の攻撃では「定遠」に魚雷が命中、大破擱座させている。また第9号は魚雷発射に成功したが被弾のため機関が全滅し漂流、生存者が救助され艇は放棄された。この艇は夜が明けた後に清国軍に拾われて、日本海軍の被捕獲の第1号となっている(戦後復帰)。
1895年(明治28年)に1隻を喪失、残りの艇は1907年(明治40年)から1910年(明治43年)にかけて除籍された。
同型艦
竣工日の後は(建造所/組み立て所)。小野浜造船所は1893年(明治26年)より呉造船支部と改称。
- 第5号 : 1892年(明治25年)3月26日竣工(クルーゾー/小野浜)。1907年(明治40年)9月28日除籍。
- 第6号 : 1892年(明治25年)3月26日竣工(クルーゾー/小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第7号 : 1892年(明治25年)4月2日竣工(クルーゾー/小野浜)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第8号 : 1892年(明治25年)4月7日竣工(クルーゾー/小野浜)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第9号 : 1892年(明治25年)4月11日竣工(クルーゾー/小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第10号 : 1892年(明治25年)4月17日竣工(小野浜)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第11号 : 1894年(明治27年)3月31日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第12号 : 1893年(明治26年)10月11日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第13号 : 1893年(明治26年)10月11日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第14号 : 1893年(明治26年)10月18日竣工(呉造船支部)。1908年(明治41年)4月1日除籍。
- 第16号 : 1893年(明治26年)11月29日竣工(呉造船支部)。1895年(明治28年)5月11日沈没。
- 第17号 : 1893年(明治26年)11月29日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第18号 : 1893年(明治26年)11月1日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
- 第19号 : 1894年(明治27年)2月17日竣工(呉造船支部)。1910年(明治43年)4月1日除籍。
脚注
- ^ 数値(メートル)は『世界の艦船』による。フィートインチの数値は『日本駆逐艦物語』による。メートルに換算すると33.7566m。
参考文献
- 中川努「日本海軍特務艦船史」『世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9