鴎 (隼型水雷艇)

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本来の表記は「鷗 (隼型水雷艇)」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
艦歴
計画 明治30年度計画[1]
起工 1903年2月24日[1]
進水 1904年4月30日[1]
就役 1904年6月4日[1]
除籍 1923年12月15日[1]
その後 1923年12月15日雑役船編入、曳船兼交通船指定[1]
廃船 1926年9月18日[1]
売却 1926年10月29日[1]
性能諸元
排水量 常備:152トン
全長 垂線間長:45.00m (147ft 7in 11/16)
全幅 4.91m (16ft 1in 7/16)[2]
吃水 1.45m (4ft 9in 3/32)
機関 ノルマン式2基
直立式3気筒3段膨張レシプロ2基
2軸 4,200馬力
速力 28.5ノット[3]
航続距離 10ノットで2,000海里
燃料 石炭:28.5トン(満載)
乗員 30名
兵装 4.7cm保式単装軽速射砲3基(推定)
45cm水上旋回式発射管3基

(鷗、かもめ[4])は、日本海軍水雷艇で、隼型水雷艇の13番艇である。同名艇に燕型敷設艇の「」があるため、こちらは「鴎 (初代)」や「鴎I」などと表記される。

艦歴[編集]

発注時の艇名は第十四号百二十噸水雷艇[4]1901年明治34年)12月18日、と命名[4]1902年(明治35年)10月31日、水雷艇に編入され等級一等となる[5]1903年(明治36年)2月24日、呉海軍造船廠で起工[1]1904年(明治37年)4月30日に進水し、同年6月4日に竣工。

日露戦争では旅順口攻撃に参戦し、日本海海戦では第十九艇隊司令艇として夜戦に参加した[1][6]

1923年大正12年)12月15日に除籍され[7]、同日、雑役船に編入となり、曳船兼交通船に指定され海軍水雷学校所属となる[1][6]1926年(大正15年)9月18日に廃船となり、同年10月29日に売却[1][6]

艇長[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
  2. ^ 4.91mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90m。
  3. ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
  4. ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 390頁。◎「水雷艇鷺外四隻命名ノ件」明治三十四年十二月十八日(達一七一) 新造水雷艇ニ左ノ通命名ス | 呉海軍造船廠ニ於テ製造 |〔中略〕第十四號百二十噸水雷艇 鷗 カモメ〔以下略〕。
  5. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 63頁。◎明治三十五年十月三十一日(達一〇〇) 軍艦及水雷艇類別等級別表中驅逐艦ノ欄内ニ「春雨」ヲ、水雷艇一等ノ欄内ニ「鷺、鶉、鷗、鷂、鴻」ヲ、同二等ノ欄内ニ「第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ加フ。
  6. ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、485頁。
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 80頁。◎大正十二年十二月十五日(達二四三) 艦艇類別等級別表中水雷艇ノ欄内「雉、鴻、鷗」ヲ削ル。
  8. ^ 『官報』第3276号、大正12年7月2日。

参考文献[編集]

世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
  • 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
  • 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。