鵲 (隼型水雷艇)

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艦歴
計画 明治29年度計画[1]
起工 1899年12月26日[1]
進水 1900年6月30日[1]
就役 1900年11月30日[1]
除籍 1919年4月1日[1]
その後 1919年4月1日雑役船編入、曳船兼交通船指定、鵲丸と改称[1]
1920年7月1日、鵲に再改称[1]
廃船 1925年12月17日[1]
売却 1926年4月5日[1]
性能諸元
排水量 常備:152トン
全長 垂線間長:45.00m (147ft 7in 11/16)
全幅 4.91m (16ft 1in 7/16)[2]
吃水 1.45m (4ft 9in 3/32)
機関 ノルマン式2基
直立式3気筒3段膨張レシプロ2基
2軸 4,200馬力
速力 28.5ノット[3]
航続距離 10ノットで2,000海里
燃料 石炭:28.5トン(満載)
乗員 30名
兵装 4.7cm保式単装軽速射砲3基(推定)
45cm水上旋回式発射管3基

(かささき[4]、かささぎ)は、日本海軍水雷艇で、隼型水雷艇の2番艇である。同名艇に鴻型水雷艇の「」があるため、こちらは「鵲 (初代)」や「鵲I」などと表記される。

艦歴[編集]

発注時の艇名は第三号百二十噸水雷艇[4]1898年明治31年)3月16日、と命名[4]。同年3月21日、「軍艦及水雷艇類別等級」が定められ、水雷艇に編入され一等に類別[5]1899年(明治32年)12月26日、フランス、ノルマン社で起工[1]1900年(明治33年)6月22日、新たに「軍艦及水雷艇類別等級」が定められ、水雷艇の等級一等となる[6]。同年6月30日に進水。呉海軍造船廠で組み立てられ、同年11月30日に竣工。

日露戦争では旅順口攻撃や、日本海海戦では第十四艇隊に所属して夜戦に参加した[1][7]

1919年大正8年)4月1日に除籍され[8]、同日、雑役船に編入となり鵲丸と改称し、曳船兼交通船に指定され佐世保海軍工廠所属となる[1][7]1920年(大正9年)7月1日、に再改称し、1925年(大正14年)12月17日に廃船となり、1926年(大正15年)4月5日に売却[1][7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
  2. ^ 4.91mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90m。
  3. ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
  4. ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 389頁。◎「水雷艇隼外三隻命名ノ件」明治三十一年三月十六日(達二八) 佛國及獨國ニ於テ製造シ本邦ニ於テ組立ソヘキ百二十噸水雷艇左ノ通命名ス | 佛國ニ於テ製造〔中略〕第三号百二十噸水雷艇 鵲 カササキ ※以下略。
  5. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 60頁。◎「軍艦及水雷艇類別等級」明治三十一年三月二十一日(達三五) 。
  6. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 61-62頁。◎「軍艦及水雷艇類別等級」明治三十三年六月二十二日(達一二二) 。
  7. ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、484、501頁。
  8. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 77頁。◎大正八年四月一日(達四四) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「嚴島、」ヲ、駆逐艦ノ欄内「叢雲、夕霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「隼、鵲、眞鶴、千鳥、」ヲ削ル。

参考文献[編集]

世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
  • 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
  • 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。