連合国遠征軍最高司令部
連合国遠征軍最高司令部 (SHAEF) | |
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SHAEFショルダーパッチ | |
活動期間 | 1943–1945 |
解散 | 1945年7月14日 |
国籍 |
アメリカ イギリス カナダ 自由フランス ポーランド ノルウェー オーストラリア ニュージーランド オランダ ベルギー |
忠誠 | 連合国 |
兵科 | 合同司令部 |
任務 | 作戦総軍 |
上級部隊 | 連合参謀本部 |
渾名 | SHAEF |
主な戦歴 | 第二次世界大戦 |
指揮 | |
最高司令官 | ドワイト・D・アイゼンハワー |
最高司令官代理 | アーサー・テッダー |
連合国遠征軍最高司令部(れんごうこくえんせいぐんさいこうしれいぶ、英:Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force、略称:SHAEF)は、1943年から第二次世界大戦が終結する1945年まで活動していた、ヨーロッパ北西における連合国軍の司令部である。ドワイト・D・アイゼンハワーアメリカ陸軍大将が最高司令官を務めていた。SHAEFの立場自体は欧州連合軍最高司令部や大西洋連合軍などと似ているが、組織として異なっていることに留意すべきである。
第二次世界大戦
アイゼンハワーは1943年12月に地中海作戦戦域司令部から、ロンドンのキャンプ・グリフィスで組織されたSHAEFへと転じた。ここに隣接した通りは、現在でもシーフ・ウェイ(Shaef Way)と呼ばれている。SHAEFの参謀らはCOSSAC(連合国軍最高司令官参謀長、Chife of Staff to the Supreme Commander Allied Forces)のサー・フレデリック・エッジワース・モーガン中将とレイ・バーカー少将によって立案されたオーバーロード作戦の外枠を受け取った[1]。COSSACに任命されたモーガンはアイゼンハワーと面会する前の1943年3月中頃にヨーロッパ侵攻計画を練りはじめ[2]、計画の最終策定版が1944年6月6日に実行された。計画はアイゼンハワーと、侵攻の初期段階における全地上部隊の指揮官であるバーナード・モントゴメリー大将により最終的な策定案へと形を変えていった。
侵攻が始まった後も、SHAEFは十分な戦力がフランスに上陸するまでイギリスに残されていた[3]。この時点でモントゴメリーは全地上部隊の指揮官としての任務を終了し、ノルマンディーの橋頭堡東翼に展開するイギリス第21軍集団の指揮を執っていた。一方、橋頭堡西翼ではオマール・ブラッドレー中将を指揮官とするアメリカ第12軍集団が新たに設置されていた。ノルマンディーを突破した後、連合国軍はドラグーン作戦(南仏侵攻作戦)を発動する。この作戦はジェイコブ・L・ディヴァース中将指揮下のアメリカ第6軍集団が担当した。南仏侵攻開始の時点で米第6軍は地中海作戦戦域に設置された連合国軍司令部(AFHQ)の指揮下にあったが、1ヶ月後指揮権はSHAEFへ譲られた。この頃までに3個の軍集団は西部戦線に展開し、以後終戦まで戦った。戦線のうち、英第21軍集団は北部、米第12軍集団は中央部、米第6軍集団は南部での作戦を担当した。1944年12月、SHAEFはフランスのヴェルサイユにあるトリアノン・パレス・ホテル(Trianon Palace Hotel)に移動した[4]。その後、1945年2月にランス、ドイツ降伏後の5月26日にフランクフルト・アム・マインへと移動した[5]。
戦闘序列
SHAEFはアメリカ陸軍、自由フランス軍、イギリス陸軍そしてカナダ陸軍に所属する3個軍集団(8個野戦軍)を指揮下に収めていた。これは西部戦線における単一の作戦に割り当てられた部隊としては最大規模のものである。
これら地上部隊に加え、ネプチューン作戦(オーバーロード作戦における上陸段階)において多数の海軍戦力を指揮したほか、2個戦術空軍(アメリカ第9空軍、イギリス第2戦略空軍)を指揮下においていた。ネプチューン作戦においては、イギリスに展開する戦略爆撃戦力もSHAEFの指揮下に収められていた。
指揮官
- 連合国最高司令官:ドワイト・D・アイゼンハワー米陸軍大将
- 連合国最高司令官補佐:アーサー・テッダー英空軍大将
- 地上戦力指揮官:
- バーナード・モントゴメリー英陸軍元帥(イギリス第21軍集団)
- オマール・ブラッドレー米陸軍中将(アメリカ第12軍集団)
- ジェイコブ・ラックス・ディヴァース米陸軍中将(アメリカ第6軍集団)
- 航空戦力指揮官:トラッフォード・リー=マロリー英空軍中将
- 海軍戦力指揮官:バートラム・ラムゼー英海軍大将[6]
第二次世界大戦終結後
ナチス・ドイツの降伏後、連合国軍の部局としてのSHAEFは1945年7月14日に解散したが、アメリカ軍においてはヨーロッパ戦域軍(USFET、US Forces, European Theater)が役割を引き継いだ[5]。USFETは1947年3月15日にヨーロッパ軍(EUCOM、European Command)と改称された[7]。
参考文献
- ^ Harrison, Gordon A. (2002) [1951]. “Chapter II Outline Overlord”. Cross Channel Attack. United States Army in World War II. United States Army Center of Military History. CMH Pub 7-4
- ^ See: Ambrose, Stephen E. (1994). D-Day. Simon & Schuster. ISBN 0-684-80137-X
- ^ アイゼンハワーが前進指揮所を設置する為にノルマンディーへと移ったのは1944年8月7日朝のことである。
- ^ Ambrose, Stephen E. (1997). Citizen Soldiers. Simon & Schuster. ISBN 0-7434-5015-9
- ^ a b Linke, Vera (2 March 2002). “Das I.G. Farbenhaus – Ein Bau der, deutsche Geschichte widerspiegelt (The IG Farben Building – A building that reflects German History)” (German). Transcript of lecture given in Frankfurt Archive No.K20840. Hausarbeiten.de. 2006年7月18日閲覧。
- ^ “Unity of Command – Normandy Invasions”. 2 December 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月23日閲覧。
- ^ 今日のアメリカ欧州軍(United States European Command)とは異なる。
- Winters, Major Dick, with Cole C. Kingseed (2006). Beyond Band of Brothers: The War Memoirs of Major Dick Winters. Berkley Hardcover. ISBN 978-0-425-20813-7., page 210.
外部リンク
- Records of Supreme Headquarters, Allied Expeditionary Force, Dwight D. Eisenhower Presidential Library
- Daily Battle Communiques, SHAEF, June 6, 1944 – May 7, 1945
- United States Army in World War II European Theater of Operations The Supreme Command By Forrest C. Pogue. Office of the Chief of Military History, Department of the Army, Washington, D. C., 1954. Library of Congress Catalog Number: 53-61717
- BBC WW2 People's War article on Uxbridge SHAEF and London Bushey
- Directive to Supreme Commander, Allied Expeditionary Force Dwight D. Eisenhower at his nomination
- Original Document; Order of the day
- Papers of Ernest R. "Tex" Lee, military aide to General Eisenhower, 1942–1945, Dwight D. Eisenhower Presidential Library
- Papers of Thor Smith, Public Relations Division, SHAEF, Dwight D. Eisenhower Presidential Library