内藤元種
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 天文23年5月5日(1554年6月4日) |
別名 | 通称:少輔九郎 |
戒名 | 及菴宗智 |
官位 | 伊勢守 |
主君 | 毛利元就 |
氏族 | 藤姓内藤氏 |
父母 | 父:内藤元康、母:福原広俊の娘 |
子 | 元泰、娘(毛利輝元養女、羽柴秀勝室) |
内藤 元種(ないとう もとたね)は、戦国時代の武将。安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣。父は内藤元康。
出自
安芸内藤氏は、建保4年(1216年)に厳島神社領であった安芸国高田郡長田郷の地頭となって以来、その地を代々領した国人である。元種の祖父である内藤中務丞元泰(次郎太郎)の代までに毛利氏の麾下に入っている。
生涯
享禄4年(1531年)、内藤元康の子として生まれる。天文3年(1534年)に父が死去したことで幼少ながら家督を継ぎ、毛利元就に仕えた。
天文17年(1548年)の6月18日と20日に行われた、山名理興の拠る神辺城(村尾城)への総攻撃(神辺合戦)における城の柵や塀越しの攻防で武功を挙げ、6月23日に毛利隆元から感状を与えられた。この戦いで毛利元就・隆元父子は家臣に多くの感状を出しており、元種もその内の1人だった。
天文19年(1550年)の井上氏粛清の後に出された、毛利氏家臣238名による毛利氏への忠誠を誓う連署起請文の33番目に「内藤少輔九郎元種」と署名している。
天文23年(1554年)5月5日、元種は24歳で死去した。事情は不明であるが、元種死去の前年である天文22年(1553年)には既に子の元泰が家領を継いでいる。
家族
嫡子は内藤元泰。また、娘がおり、毛利輝元の養女となった後、豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝と婚姻をしている[1]とされるが、元種の娘の生年(1554年以前)と秀勝の生年(1569年)を考慮すると有り得ない組み合わせであり、秀勝室は毛利氏血縁で長門内藤氏の内藤元種(内藤興盛の子)の娘である。
脚注
- ^ 西尾和美 著「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版、2010年。