オストロフ (リウネ州)
オストロフ Острог | |
---|---|
座標 : 北緯50度20分 東経26度31分 / 北緯50.333度 東経26.517度 | |
歴史 | |
史料初出 | 1100年 |
市 | 1795年 |
行政 | |
国 | ウクライナ |
州 | リウネ州 |
地区 | オストロフ地区 |
市 | オストロフ |
人口 | |
人口 | (2013現在) |
市域 | 15711人 |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
市外局番 | 3654 |
ナンバープレート | НК / 18 |
位置図 |
オストロフ(ウクライナ語: Острог)はウクライナ・リウネ州オストロフ地区(ru)の市(місто)である。同地区の中心市であるが、行政機構上は同地区内には含まれない。人口は2013年時点でおよそ15700人。中世にはオストログスキ家の所領となっていた。
地理
[編集]市の面積は10.9km2。州都リウネからは55km、首都キエフからは329kmの位置にある[1]。14kmの位置にはオストロフ駅(uk)がある。
歴史
[編集]史料上の初出は『イパーチー年代記』の1100年の項であり、ダヴィド・イーゴレヴィチの所領となったことが記されている。また『グストィニャ年代記(ru)[注 1]』の1340年の項には、オストログスキ家に関する最初の言及が見られる。この年、オストログスキ家のダヌィーロ(ru)は、ハールィチにおいてポーランド王カジミェシュ3世の軍に勝利した。
15世紀に建設されたオストロフ・シナゴーグ(参照:シナゴーグ)は、当時の東欧で最大級のものの1つであった[2]。
1576年、オストログスキ家のコンスタンティ = ヴァシーリによって、東欧で最初の高等教育施設であるオストロフ大学(ギリシャ語・スラヴ語・ラテン語のアカデミー。現オストロフ国立大学(ru)の前身に位置づけられている。)が、翌年にはコンスタンティとイヴァン・フョードロフ(ru)によってオストロフ活版印刷所(ru)が建設された。彼らは1581年には教会スラヴ語による『オストロフ聖書』(ru)の初版を印刷している[注 2]。
1897年には14749人が住んでおり、うちユダヤ人9185人、ウクライナ人2446人、ロシア人2199人、タタール人176人だった[3]。
1941年9月1日にはナチスがこの地でホロコーストを行い2500人のユダヤ人が虐殺された。
史跡
[編集]- オストロフ城(ru)
ゆかりの著名人
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- Логвин. Г. Н. Острог. — Киев: «Мистецтво», 1966. — 8 с.