大久保忠為
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 元和2年8月9日(1616年9月9日) |
別名 | 彦十郎、権右衛門(通称) |
墓所 | 妙光寺(神奈川県小田原市) |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠員 |
兄弟 | 忠世、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠教、忠元、九平次 |
妻 |
先妻:井上甚左衛門の娘 後妻:深澤正長の娘 |
子 | 常辰、常信(正信)、忠知、忠舊、忠貞、娘(大久保長安室→鵜殿長寛室)、娘(石川成堯室)、娘(鵜殿氏信室)、娘(拝郷可直室) |
大久保 忠為(おおくぼ ただため)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。大久保忠員の六男。通称、彦十郎、権右衛門。兄に大久保忠世や大久保忠佐、弟に大久保忠教らがいる。
徳川家康に父や兄弟達とともに仕え、慶長14年(1609年)に縁戚の石川忠総(大久保忠隣次男)が大垣藩主になるとこれに付属された。大坂の陣にも従軍し、高麗橋で石川忠総に付き従った[1]。
元和2年(1616年)4月4日、病床の徳川家康に石川忠総と共に呼ばれた際、大久保忠隣ら本家の粛清の件を巧みにそらしつつ、大垣で湿地に新田を開発したことを話すと「新田が一万石であっても全て忠為に与えるので、より一層忠功に励むように」と伝えられた[1]。家康の死後、安堵したのか同年8月9日、63歳で死去した。
三男の大久保忠知は、旗本として書院番頭となる。その子大久保忠高は1万石を領するまでに栄進し、大久保常春は大名となり、下野国烏山藩となった。また、四男の忠舊は紀州徳川頼宣の付属となり、娘婿の大久保忠直の娘須磨の方(深徳院)が将軍徳川吉宗の側室となり、9代将軍となる徳川家重を産む。