コンテンツにスキップ

岡田捷五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Chuta (会話 | 投稿記録) による 2021年4月26日 (月) 14:49個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (lk)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)11月24日-1976年(昭和51年)10月2日)は東京芸術大学教授、建築家。建築家岡田信一郎の弟である。

経歴

東京美術学校図案科第2部(現東京芸術大学建築科)を卒業。病弱な兄・信一郎を補佐して設計に従事し、兄の逝去後は建築事務所を引き継ぎ、明治生命館琵琶湖ホテルを完成させた。また、母校の東京美術学校建築科の講師となり、後に教授に就任。第2次世界大戦後は東京芸術大学教授。日本建築士会理事長などを務めた。

この間、吉村順三宮脇檀らの後進を育成する。

年表

  • 1894年(明治27年)東京市牛込区生まれ[1]
  • 1915年(大正4年)東京美術学校図案科第2部に入学
  • 1919年(大正10年)東京美術学校卒業、卒業制作で日本美術協会より銅牌を受ける。滝川工務店への入所を経て、12月から1年間兵役に就き赤羽工兵第一大隊に所属
  • 1920年(大正11年)除隊後、兄岡田信一郎の建築設計事務所に勤務
  • 1924年(大正13年)11月、建築視察のため、ヨーロッパへ向かう[2]
  • 1926年(大正15年)1月、アメリカを経由して帰国
  • 1927年(昭和2年)東京美術学校建築科講師
  • 1930年(昭和5年)明治生命館の建設に当たり、北アメリカ、カナダの保険会社を視察
  • 1932年(昭和7年)兄信一郎が逝去し、事務所を引き継ぐ
  • 1943年(昭和18年)東京美術学校教授
  • 1949年(昭和24年)東京芸術大学教授
  • 1962年(昭和37年)停年退職、名誉教授
  • 1965年(昭和40年)勲三等瑞宝章
  • 1976年(昭和51年)急性肺炎のため逝去、享年83

主な作品

  • 神戸市公会堂計画案(1922年) - 前田健二郎(東京美術学校出身)と連名。コンペティション1等当選(計画は延期となり実施されず)
  • 早稲田大学大隈記念大講堂計画案(1923年) - 前田健二郎と連名。コンペティション1等当選(結局不採用となり、早稲田大学建築学科の佐藤功一らの設計により実施された)
  • 黒田記念館(1928年) - 兄と連名
  • 銀座伊東屋(1930年) - 兄と連名
  • 明治生命館(1934年) - 兄と連名、建設中の1932年に兄が逝去し、引き継いで完成させた。国の重要文化財
  • 琵琶湖ホテル(1934年) - 原案がまとまった段階で兄が逝去し、引き継いで完成させた。現びわ湖大津館
  • 高千穂ビル
  • 日本出版クラブ

文献

  • 『日本美術年鑑』昭和52年版(286頁)[1]

註釈

  1. ^ 以下、主に『日本美術年鑑』(昭和52年版、p286)による。
  2. ^ 大隈講堂、神戸市公会堂などのコンペ賞金をもとに私費で外遊した。パリでは、親友の吉田五十八、宮内省内匠寮の権藤要吉とともにパリ万博(アール・デコ博)を見学した。(『朝香宮邸のアールデコ』)

関連項目