賈徳耀
賈徳耀 | |
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プロフィール | |
出生: | 1880年(清光緒6年) |
死去: |
1941年(民国30年) 中華民国上海特別市 |
出身地: | 清安徽省廬州府合肥県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 賈德耀 |
簡体字: | 贾德耀 |
拼音: | Jiǎ Déyào |
ラテン字: | Chia Te-yao |
和名表記: | か とくよう |
発音転記: | ジャア ドゥーヤオ |
賈 徳耀(か とくよう)は、中華民国の軍人・政治家。北京政府、安徽派の軍人。後に国務院総理となった。国民政府でも役職に就いている。字は焜庭、昆庭。
事跡
[編集]保定陸軍軍官学校を卒業した後に、日本へ留学した。陸軍士官学校第3期歩兵科で学んでいる。帰国後は、北洋第2鎮正参謀官、騎馬2標標統を歴任した。[1][2][3]
1912年(民国元年)、河南護軍に配属され、団長となる。1913年(民国2年)、第7師第13旅旅長に昇進する。民国3年(1914年)9月には第15混成旅旅長に異動した。1916年(民国5年)1月、陝南鎮守使に任命されている。袁世凱死後、賈徳耀は段祺瑞率いる安徽派に属する。[4]1919年(民国8年)8月、保定陸軍軍官学校校長に任じられた。安直戦争後の1922年(民国11年)、陸軍部軍学司司長に任じられ、1923年(民国12年)3月、陸軍軍学編輯局局長となった。[1][2][5]
1924年(民国13年)10月、賈徳耀は馮玉祥による北京政変(首都革命)に参与して、段祺瑞の復権に貢献した。[6]11月、陸軍次長に、12月には陸軍総長に任命されている。1926年(民国15年)2月15日、許世英の後任として、国務院総理に任命される(陸軍総長も兼任)。しかし3月18日、日本と欧米各国が段に馮排除を要求し、[7]さらに武力行使も辞さないと勧告したことに端を発して、北京でこれに反発する民衆と官憲との衝突事件が発生した(三・一八惨案)。賈は事件の責任をとり、4月20日に辞任した。[1][2][8]
その後は段祺瑞とともに下野していたが、1932年(民国21年)6月、賈徳耀は国民政府軍事参議院参議として復帰する。民国24年(1935年)12月、冀察政務委員会委員となった。1936年(民国25年)1月、外交委員会委員となり、主任委員も後につとめた。日中戦争が勃発した後には、賈は日本軍の占領地域にとどまった。しかし、親日政府への参加要請は拒絶している。晩年は上海に移り、隠棲した。1941年(民国30年)、上海にて病没。享年62。死後、国民政府から陸軍中将、陸軍上将銜を追贈されている。[1][2]
注
[編集]- ^ a b c d 徐主編(2007)、2188頁。
- ^ a b c d 来ほか(2000)、1159頁。
- ^ 外務省情報部編(1928)、444頁。
- ^ 段祺瑞とは同郷であったことに加え、賈徳耀の父は段と義兄弟の関係にあったという。外務省情報部編(1928)、445頁。
- ^ 外務省情報部編(1928)、444-445頁。
- ^ 馮玉祥とはかねてから軍中で同僚の関係にあった。外務省情報部編(1928)、445頁。
- ^ この直前の3月12日に、天津で日本軍の軍艦と国民軍との間で交戦が起きていた。
- ^ 外務省情報部編(1928)、445頁は、賈徳耀内閣の瓦解を同年6月とし、原因も討赤聯軍(反馮玉祥連合軍)の北京攻撃による、としているが、これは誤りである。
参考文献
[編集]- 来新夏ほか『北洋軍閥史』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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