007号/世界を行く

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007号/世界を行く
Thrilling Cities
著者 イアン・フレミング
訳者 井上一夫
発行日 イギリスの旗 1963年11月
日本の旗 1965年12月31日(正)
日本の旗 1966年6月15日(続)
発行元 イギリスの旗 ジョナサン・ケープ
日本の旗早川書房
ジャンル 紀行
イギリスの旗 イギリス
言語 英語
形態 イギリスの旗 ハードカバー
日本の旗 新書
ページ数 イギリスの旗 223
日本の旗 212(正)162(続)
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007号/世界を行く』(007ごう/せかいをゆく、英語: Thrilling Cities )は、スパイ小説ジェームズ・ボンド・シリーズの著者で、サンデー・タイムズのジャーナリストであったイアン・フレミングによる紀行である。イギリスで1963年11月にジョナサン・ケープから刊行された。

『007号/世界を行く』は、もともとはフレミングがサンデー・タイムズのために執筆したシリーズ記事であり、彼が敢行した二回の旅行に基づいている。一回目は1959年の世界一周旅行であり、二回目は1960年のヨーロッパ自動車旅行である。一回目の旅行は、サンデー・タイムズの特集記事担当のレナード・ラッセルの指示によるものであったが、同紙の会長のロイ・トムソンがシリーズを気に入り、フレミングに二回目の旅行を企画するように提案した。単行本は連載時に削除された箇所を含むほか、様々な都市の写真を収録している。

概要[編集]

『007号/世界を行く』は、イアン・フレミングが1959年と1960年の二回の旅行で訪れた13の都市について概観したものである。対象となった都市は、香港マカオ東京ホノルルロサンゼルスラスベガス(この二つの都市が一つの章で考察されている)、シカゴニューヨークハンブルクベルリンウィーンジュネーヴナポリそしてモンテカルロである。フレミングの記述は非常に個人的なものであり、彼が訪れて経験したこと、そして受けた印象について述べている。各章はフレミングが「付随情報」(”Incidental Intelligence”)と名付けたもので閉じられており、ホテル、レストラン、食事、そしてクラブなどのナイトライフについて案内している。

背景[編集]

1959年、サンデー・タイムズの特集記事担当のレナード・ラッセルは、同紙の特集記事のシリーズのため、会社の経費負担で5週間の世界一周旅行をすることをイアン・フレミングに提案した[1]。フレミングは、自分は「博物館や美術館の入口にローラー・スケートを備えてくれと、しばしば考えるような」[2]最低の観光客だと言って断ったが、ラッセルは、旅行中にジェームズ・ボンドの小説の材料を見つけることもできると指摘してフレミングを説得した[3]。フレミングは経費として500ポンド(当時)の旅行小切手を用意し、英国海外航空で最初の目的地である香港に飛んだ[4]。彼は友人でサンデー・タイムズのオーストラリア人特派員であるリチャード・ヒューズに街を案内された[1]。フレミングは香港に3日間滞在した後、ヒューズとともに東京に向かい、朝日新聞社のジャーナリストでヒューズの友人でもある斎藤寅郎[注 1](タイガー斎藤)に迎えられた[6]。東京での滞在期間は3日間であったため、フレミングは旅行の日程から「政治家との会見、博物館、寺院、皇居に能はいうまでもなく、お茶さえも予定から外す」[7]と決めていた。その代わりに、彼は東京に滞在中であった友人のサマセット・モームとともに講道館を見学したほか、日本の易者を訪問している[6]

フレミングは11月13日金曜日に東京を出発してハワイに向かったが、太平洋上2,000マイルの地点で、搭乗していたダグラス DC-6のエンジンのうち一基が出火して墜落寸前となり、ウェーク島に緊急着陸した[8]。ホノルルの後、フレミングはロサンゼルスに移動し、そこで以前に訪れたいくつかの場所を再訪した。そのうちのロサンゼルス市警察本部では、『ダイヤモンドは永遠に』の取材で出会った[9]ジェームズ・ハミルトン警部と再会している[10]。ニューヨークに到着する頃には、フレミングは旅行にうんざりしており、フレミングの伝記を執筆したアンドリュー・ライセットは、「彼の不快な気分が、その街に、そして彼がかつて愛した国に転嫁されてしまった」と記している[10]。この一回目の旅行に基づく特集記事のシリーズは、1960年1月24日のサンデー・タイムズでフレミングの序文から開始され[11]、翌週には引き続いて香港の記事が掲載された[12]。このシリーズは、1960年2月28日にシカゴとニューヨークの記事をもって終了した[13]

サンデー・タイムズの会長のロイ・トムソンはフレミングの記事を気に入り、次の旅行先としてリオデジャネイロブエノスアイレスハバナニューオーリンズそしてモントリオールを含むいくつかの都市を提案した[14]。一方、サンデー・タイムズの編集者のハリー・ホドソンたちは、それほど熱心ではなかった。ホドソンは、「真剣な読者は、フレミングの記事が真に重要な要素を欠いていることに舌打ちしている」と考えていた[14]

フレミングは二回目の旅行先をヨーロッパのなかで訪れてみたい場所に絞り、ほとんどの行程を自動車で回ることにした[14]。彼は愛車のフォード・サンダーバードコンバーチブルに乗り、イギリス海峡を横断し、オーステンデアントウェルペンブレーメンを経由して最初の目的地であるハンブルクに到着した[14]。彼は短時間しか滞在しなかったが、ハンブルクの性産業について、「イギリスにおいて、我々が大変に不名誉なまでにこうした問題の管理を誤ってしまった、お堅い偽善の方法と比べると何という違いだろう」[15]と評している。フレミングはベルリンへ移動し、サンデー・タイムズの特派員のアントニー・テリーと妻のレイチェルに街を案内された。テリーはフレミングを東ベルリンへ案内し、金工作の詳細について語った。これはイギリスとアメリカが共同して、ソ連軍司令部の陸上通信線通信を盗聴するためにソ連占領地域へトンネルを掘った作戦である[15]。フレミングは、ハンブルクと比べてベルリンは「不吉だ」と思った[16]

フレミングはウィーンへ移動したが退屈な街だと感じ、ジュネーヴについては「清潔で、きちんとしていて、信心深い」[17]と述べた。彼はジャーナリストで旧友でもあるイングリッド・エトラーに会った。彼女はジュネーヴ在住で、フレミングに記事の題材の多くを提供した[17]。それからフレミングはレザヴァンへ移動し、モントルーに近い親友のノエル・カワードの邸宅でチャールズ・チャップリンを紹介された[17]。フレミングはチャップリンに会う機会を設けてくれるようにカワードに依頼していた。当時チャップリンは回顧録を執筆中であったため、レナード・ラッセルはフレミングにその権利を取るよう依頼していたのである。フレミングはアプローチに成功し、回顧録は後にサンデー・タイムズで連載された[17]

レザヴァンではフレミングの妻のアンが合流し、二人はナポリへと向かった。ナポリでフレミングはラッキー・ルチアーノに取材し、「こざっぱりとして、もの静かで、疲れてはいるがハンサムな灰色の髪の男」と記している[18][19]。ナポリの後、フレミング夫妻は最後の目的地であるモンテカルロへ移動した[19]。カジノで時間を費やしたにもかかわらず、フレミングはモンテカルロをどこかみすぼらしい街だと思った[16]。この二回目の旅行に基づく特集記事のシリーズは、1960年7月31日にハンブルクへの旅から始まり[20]、モンテカルロ訪問をもって終了した[21]。シリーズは全体的に好評で、成功したものと考えられている[22]

出版[編集]

『007号/世界を行く』は、1963年11月、イギリスでジョナサン・ケープから刊行された。表紙は画家のポール・デイヴィスによるもので、「モンテカルロのシュールなバージョン」[23]を表現している。アメリカでは、1964年6月にニュー・アメリカン・ライブラリーから刊行された。ニューヨークについてのフレミングの記述が批判的なものであったため、アメリカでの出版の際、出版社は表現を和らげるよう求めた。フレミングはこれを拒否し、その代償としてアメリカ版に収録するための短編小説『007号ニューヨークを行く』(007 in New York)を執筆した[24]

日本語訳[編集]

  • 永井淳訳『「魅惑の街」より 東京の印象』『フレミングの東京ガイド』、『エラリイ クイーンズ ミステリ マガジン』(EQMM)第10巻第6号、早川書房、1965年5月臨時増刊号、11~27頁。東京の章の翻訳。
  • 井上一夫訳『007号/世界を行く』、早川書房、1965年。香港、マカオ、東京、ホノルル、ロサンゼルスとラスベガス、シカゴ、ニューヨーク、ハンブルク、ベルリンの各章の翻訳。東京の章は上記の永井淳訳を収録。
  • 井上一夫訳『続007号/世界を行く』、早川書房、1966年。ウィーン、ジュネーヴ、ナポリ、モンテカルロの各章の翻訳。
  • 小林弘子訳『007号ニューヨークを行く』、『ハヤカワミステリマガジン』第53巻第10号、早川書房、2008年10月、18~23頁。アメリカ版に収録された短編小説の翻訳。

備考[編集]

フレミングがサンデー・タイムズの企画による世界一周旅行で日本を訪れたとき、かつての敵国に対して当初感じていたわだかまりは、すぐに消え去った[8][25]。彼は日本旅館に宿泊し、ブリジット・バルドーに似た「キッシー」という名の女性(フレミングは彼女の名を「ベビー」に変更している)からマッサージを受け、芸者たちと俳句を詠み、たくさんの日本酒を飲んだ[8]。ジョナサン・ケープ版には、浴衣を着て番傘をさしたフレミングの写真が収められている[注 2]

フレミングは3年後の1962年11月に再び日本を訪れ[26]、リチャード・ヒューズと斎藤寅郎を伴って12日間の取材旅行を行った[27][28]。この取材を基に執筆された『007は二度死ぬ』は、ジェームズ・ボンド・シリーズとしては12冊目の、そして彼の生前に完成された最後の小説となった[29]。この小説の登場人物のうち、オーストラリアの外交官ディッコ・ヘンダーソンはリチャード・ヒューズが、そして日本の公安調査庁の責任者であるタイガー田中は斎藤寅郎がモデルとなっている[30]

なお、リチャード・ヒューズは、フレミングと同じイギリスのスパイ小説家であるジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』の登場人物クロウ老人のモデルにもなった[31][注 3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 建築家、建築評論家。朝日新聞社の記者を経て、同社が海外向けに刊行していた年鑑「This is Japan」(ジス・イズ・ジャパン)の編集長を務めた。1971年2月逝去[5]
  2. ^ 写真のキャプションは、”At Yugawara. After the bath”( 湯河原にて。入浴の後)。日本語訳(早川書房、1965年12月)にも同じ写真が縮小して掲載されており、「日本旅館でくつろぐフレミング」というキャプションが付されている。
  3. ^ 同書の序文において、ジョン・ル・カレがヒューズへの謝意を表している。

出典[編集]

  1. ^ a b Chancellor 2005, p. 177.
  2. ^ ピアーソン 1969, p. 378.
  3. ^ Macintyre 2008, p. 185-186.
  4. ^ Lycett 1996, p. 356.
  5. ^ 「本会正会員 斉藤寅郎君逝去」、『建築雑誌』第86巻第1038号、日本建築学会1971年5月、 15頁。
  6. ^ a b Lycett 1996, p. 357.
  7. ^ Macintyre 2008, p. 186-187.
  8. ^ a b c Chancellor 2005, p. 178.
  9. ^ Benson 1988, p. 10.
  10. ^ a b Lycett 1996, p. 358.
  11. ^ Fleming, Ian (1960年1月24日). “Introducing The Thrilling Cities”. The Sunday Times (London): p. 30 
  12. ^ Fleming, Ian (1960年1月31日). “The Thrilling Cities: Hong Kong”. The Sunday Times (London): p. 11 
  13. ^ Fleming, Ian (1960年2月28日). “Gangsters without Guns”. The Sunday Times (London): p. 13 
  14. ^ a b c d Lycett 1996, p. 370.
  15. ^ a b Lycett 1996, p. 371.
  16. ^ a b Chancellor 2005, p. 180.
  17. ^ a b c d Lycett 1996, p. 372.
  18. ^ Fleming, Ian (1960年8月28日). “In and Around Brazen Naples”. The Sunday Times (London): p. 20 
  19. ^ a b Lycett 1996, p. 373.
  20. ^ Fleming, Ian (1960年7月31日). “'Anything goes' in Hamburg”. The Sunday Times (London): p. 17 
  21. ^ Fleming, Ian (1960年9月4日). “My Monte Carlo System”. The Sunday Times (London): p. 24 
  22. ^ Macintyre 2008, p. 187.
  23. ^ Benson 1988, p. 25.
  24. ^ Chancellor 2005, p. 179.
  25. ^ ピアーソン 1969, p. 381.
  26. ^ 笹川正博「来日したジェイムズ・ボンド」、『エラリイ クイーンズ ミステリ マガジン』第8巻第3号、早川書房、1963年3月、 112-114頁。
  27. ^ リチャード・ヒューズ「007と日本漫遊」、『ミステリマガジン』第11巻第3号、早川書房、1966年3月、 99-106頁。
  28. ^ ピアーソン 1969, p. 403.
  29. ^ Chancellor 2005, p. 222.
  30. ^ Chancellor 2005, p. 223.
  31. ^ Langmore 2009, p. 558.

参考文献[編集]

  • Benson, Raymond (1988). The James Bond Bedside Companion. London: Macmillan Publishers. ISBN 978-1-85283-233-9. 
  • Chancellor, Henry (2005). James Bond: The Man and His World - The Official Companion to Ian Fleming’s Creation. London: John Murray (publisher). ISBN 978-0-7195-6815-2. 
  • Langmore, Diane (2009). Australian Dictionary of Biography: Volume 17 1981–1990 A-K. Melbourne: Melbourne University Publishing. ISBN 978-0-522-85382-7. 
  • Lycett, Andrew (1996). Ian Fleming. London: Phoenix. ISBN 978-1-85799-783-5. 
  • Macintyre, Ben (2008). For Your Eyes Only. London: Bloomsbury Publishing. ISBN 978-0-7475-9527-4. 
  • ジョン・ピアーソン 『女王陛下の騎士 007を創造した男』 井上一夫訳、早川書房、1969年