黒田一誠
表示
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 正徳3年12月13日(1714年1月28日) |
死没 | 天明7年5月2日(1787年6月17日) |
改名 | 一照→一誠 |
別名 | 通称:源左衛門、美作、三左衛門、適斉(号) |
主君 | 黒田継高 |
藩 | 福岡藩大老 |
氏族 | 黒田氏(三奈木黒田家) |
父母 | 父:黒田一利、母:継室大塩氏 |
兄弟 | 大音厚弘室、一誠、立花時弘室 |
妻 | 正室:八並氏 |
子 | 一興、隆庸、一秋 |
黒田 一誠(くろだ かずのぶ)は、江戸時代中期の筑前福岡藩大老。三奈木黒田家の第6代当主。
家系
[編集]三奈木黒田家は、荒木村重の家臣・加藤重徳の次男で、黒田孝高の養子となった黒田一成に始まる家。知行は1万6205余石で、家老上席、大老を世襲する。5代一利の生母は秋月藩主黒田長興の娘勝子で、以後の子孫は黒田長政の子孫となる。代々和歌や漢詩などに秀でた当主が多い。
生涯
[編集]正徳3年(1714年)、福岡藩大老黒田一利の子として生まれる。享保19年(1734年)5月、父一利が隠居し家督と知行1万6205石を相続、9月に通称を「源左衛門」から「美作」に改める。
宝暦4年(1754年)5月、先年の家老吉田保年失脚が一誠の讒言によるとされ、藩主継高より隠居を命じられた。その背景には、藩政改革を進めた吉田保年と継高の寵臣郡英成の対立があった。一誠は隠居領800石を与えられ、通称を「三左衛門」に改め、のち「適斉」と号した。家督は、嫡男の玉松(一興)が相続した。
天明7年(1787年)5月2日死去。享年74。
人物・逸話
[編集]冷泉為村に師事した歌人で、福岡藩士・石松元啓が編纂した「山里和歌集」に一誠作の和歌が収録されている。また、安永年間(1772年から1781年)に、福岡藩士加藤一純によって編集された和文集「抹桑残玉集」(宮内庁書陵部蔵)に、一誠作の「長崎紀行」が収録されている。
参考文献
[編集]- 『三奈木村村史資料第一巻』
- 福岡県 編『福岡県史資料. 第2輯』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考サイト
[編集]- 扶桑残玉集 (第26冊) - 宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
- 黒田一誠 - 國學院大學デジタル・ミュージアム国学関連人物データベース[リンク切れ]