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海眼浄光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鶴亭から転送)
海眼淨光
1722年 - 1786年
生地 長崎
没地 江戸下谷池之端
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 聖福寺
岳宗元璋
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海眼淨光(かいがんじょうこう、享保7年(1722年) – 天明5年12月24日1786年1月23日))は、江戸時代中期の黄檗僧画僧長崎派花鳥画を能くした。

道号は玄峰、恵達、のち海眼。法諱は淨要、淨光、淨博。画号は鶴亭が有名だが、ほかに如是道人、如是主人、米寿翁、白羊山人、南窓翁、墨翁、五字庵などがある。


略伝

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芭蕉図

長崎に生まれ、早い時期から聖福寺の僧となる。20歳の頃、岳宗元璋に嗣法したが、25歳に師が没するとこれをきっかけにしてか僧籍を離れる。

既に黄檗僧として画の技量を磨いていたものと思われるが、還俗後に沈南蘋の直弟子である熊斐の門下となり、彩色写生風の花鳥画を学び、独特の画風を確立。作品の款記から、延亨4年(1747年)頃には京都に住んでいたようだ。やがて大坂に出て画業で生計を立てる。俗界にあってもの戒律を守って清らかな生活を続けており、友人の悟心元明は「禅友」と呼んで賞賛した。

宝暦末年頃には大坂で名声を確立し[1]沈南蘋の花鳥画を広めたと言われる(上田秋成『あしかびのことば』)。一方で禅味のある墨竹図を好んで画いている。木村蒹葭堂が画の弟子となったほかに、柳沢淇園池大雅、黄檗僧の大鵬正鯤聞中浄復などと親しく交友した。また、寿米翁と号し、俳諧師・狂歌師としても活躍した。

明和3年(1766年)、再び黄檗僧に復帰し、4年後の47歳の時に萬福寺塔頭の輪流十三院のひとつ紫雲院第6代住持となり、松隠堂の輪番塔主も勤める。紫雲院で15年過ごし、聖福寺の住持を請われたがこれを固辞し大坂に向い、ついで江戸に出る。

天明5年(1785年)12月24日、下谷池之端において入寂。享年64。墓所は不明。

代表作

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作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
牡丹小禽図 1幅 長崎歴史文化博物館 1758年(宝暦8年)
牡丹綬帯鳥図 絹本着色 1幅 神戸市立博物館 1769年(明和6年)
富士山図 紙本墨画 1幅 ドラッカー・コレクション 1776年(安永5年)着賛 款記なし/「鶴亭図畫」朱文方印 佚山賛。富士山図の規範となった伝雪舟筆「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)を踏襲しつつも、より量感ある文人画に仕上げている。右奥の山並みの描法は、伊藤若冲が用いた筋目描に類似する[2]
花鳥雑画押絵貼屏風 紙本墨画 六曲一双 長崎歴史文化博物館 1778年(安永7年)

門弟

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脚注

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  1. ^ 『列女伝』宝暦13年(1763年)刊。
  2. ^ 河合正朋監修 松尾知子編集 『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画 「マネジメントの父」が愛した日本の美』 美術出版社、2015年5月19日、p.150、ISBN 978-4-568-10486-8

出典

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  • 成澤勝嗣 「日本の南蘋系ノート」(『季刊古美術 第93号』 三彩社、1990年) 
  • 大槻幹郎 『文人画家の譜 ―王維から鉄斎まで』 ぺりかん社、2001年1月、ISBN 978-4-8315-0898-0
  • 平井啓修 「鶴亭の足跡とその交友 ─沈南蘋から黄檗へ」『東アジア文化還流』 第3編第2号(通巻第6号)、関西大学文学部東洋史研究室、2010年11月15日、pp.48-70
  • 石沢俊 「研究ノート 文献資料に見る鶴亭」『神戸市立博物館 研究紀要』第31号、2015年3月31日、pp.37-52

関連項目

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牡丹綬帯鳥図 絹本着色 明和6年(1769年) 神戸市立博物館
菊石黄鳥図 紙本淡彩
紅白蓮図 絹本着色