コンテンツにスキップ

鬼の窟古墳 (壱岐市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鬼の窟古墳
墳丘・石室開口部
所属 壱岐古墳群
所在地 長崎県壱岐市芦辺町国分本村触1206-1(字磐屋森)
位置 北緯33度48分4.57秒 東経129度42分45.42秒 / 北緯33.8012694度 東経129.7126167度 / 33.8012694; 129.7126167座標: 北緯33度48分4.57秒 東経129度42分45.42秒 / 北緯33.8012694度 東経129.7126167度 / 33.8012694; 129.7126167
形状 円墳
規模 直径45m
高さ13.5m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に組合式箱式石棺か)
出土品 鉄鏃・須恵器土師器・新羅土器
築造時期 6世紀後半-末
史跡 国の史跡「壱岐古墳群」に包含
地図
鬼の窟古墳の位置(長崎県内)
鬼の窟古墳
鬼の窟古墳
テンプレートを表示

鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)は、壱岐市芦辺町国分本村触にある古墳。形状は円墳壱岐古墳群(国の史跡)を構成する古墳の1つ。

概要[編集]

史跡「壱岐古墳群」6基
古墳名 形状 規模 築造時期
対馬塚古墳 前方後円墳 墳丘長63m 6c後半
双六古墳 前方後円墳 墳丘長91m 6c後半
笹塚古墳 円墳 直径66m 6c後半-末
兵瀬古墳 円墳 直径54m 6c後半-末
掛木古墳 円墳 直径18-22.5m 6c後半-末
鬼の窟古墳 円墳 直径45m 6c後半-末

壱岐島中央部のなだらかな尾根状丘陵上(標高約100メートル)に築造された古墳である。江戸時代後期にはすでに石室が開口し、1936年昭和11年)・1970年(昭和45年)・1989年平成元年)に石室実測調査が実施されているほか、1953年(昭和28年)に発掘調査が実施されている。

墳形は円形で、直径45メートル・高さ約13.5メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。玄室・中室(第1前室)・前室(第2前室)・羨道からなる3室構造で、石室全長16.5メートルを測る大型石室であり、石室の石材には玄武岩の巨石が使用される。石室内の調査では、副葬品として鉄鏃・須恵器土師器・新羅土器などが検出されている。築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半-末頃(IIIB-IVA型式期)と推定され、7世紀代を通じた追葬が想定される[2]

古墳域は2009年(平成21年)に国の史跡に指定されている(史跡「壱岐古墳群」のうち)。

遺跡歴[編集]

  • 天保12年(1841年)完成の『甲子夜話』に墳形・石室の実測図の記載[3]
  • 文久元年(1861年)完成の『壱岐名勝図誌』に古墳のスケッチ・法量の記載[4]
  • 1936年昭和11年)、石室実測調査(京都大学、未報告)。
  • 1953年(昭和28年)、発掘調査(東亞考古学会、2018年に報告)[2]
  • 1961年(昭和36年)11月24日、長崎県指定史跡に指定。
  • 1970年(昭和45年)、石室実測調査(九州大学1980年の論考に石室実測図掲載)[2]
  • 1972年(昭和47年)、石室羨道の天井石の亀裂にあたり鉄柱・コンクリートによる補強。
  • 1987年(昭和62年)8月、台風12号で羨道開口部右側壁が崩壊[2]
  • 1989年平成元年)、石室修復および墳丘測量・石室清掃・石室実測調査(芦辺町教育委員会、1990年に報告書刊行)[4]
  • 2009年(平成21年)2月12日、国の史跡に指定(史跡「壱岐古墳群」のうち)。

埋葬施設[編集]

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。玄室・中室(第1前室)・前室(第2前室)・羨道からなる3室構造の石室である。石室の規模は次の通り[2]

  • 石室全長:16.5メートル
  • 玄室:長さ3.2メートル、幅3メートル、高さ3.3メートル
  • 中室(第1前室):長さ4.1メートル、幅2.4メートル、高さ1.75メートル
  • 前室(第2前室):長さ4.1メートル、幅2メートル、高さ1.9メートル
  • 羨道:長さ5.1メートル、幅1.8メートル、高さ1.8メートル
  • 開口部:幅1.9メートル、高さ2.4メートル

石室の石材には玄武岩の自然石の巨石が使用される[5]。玄室の平面形は正方形に近い方形で、中室・前室の平面形は羽子板状の長方形である[1]。中室・前室・羨道はほぼ同じ高さである。石室の床面には前面に敷石を施す。前室の前面の閉塞石は1953年(昭和28年)に復元されている[2]

玄室内には長さ2.55メートル・幅0.75メートル・厚さ0.13メートルの長方形の板石が遺存しており、組合式箱式石棺の部材とみられる[1]。現在は奥壁前面に不動像が安置される。

1953年(昭和28年)の石室内の調査では、須恵器・土師器・半島系土器(新羅土器)・鉄器類(鏃)が検出されている。そのほか、記録には「鉄製鏡板」・「鉄地鍍金の鍔金具らしきもの」が見えるが、現在は所在不明のため詳らかでない[2]。また1989年(平成元年)の調査では、須恵器・新羅土器が検出されている。

関連施設[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板
  • 地方自治体発行
    • 鬼の窟古墳 -環境整備事業報告書-』芦辺町教育委員会〈長崎県芦辺町文化財調査報告書第4集〉、1990年http://sitereports.nabunken.go.jp/15685  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
    • 「鬼の窟古墳」『壱岐の島の古墳群~現状調査』壱岐市教育委員会〈壱岐市文化財調査報告書第20集〉、2012年。 
    • 「壱岐古墳群」『壱岐市の文化財』壱岐市教育委員会、2017年。 
  • 九州大学発行
  • 事典類
    • 「鬼の窟古墳」『長崎県の地名』平凡社日本歴史地名大系43〉、2001年。ISBN 4582490433 
    • 田川肇「鬼の窟古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 

関連文献[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 小田冨士雄「対馬・壱岐の古墳文化」『東アジアにおける日本古代史講座2』学生社、1980年。 

外部リンク[編集]