高孝珩

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高 孝珩(こう こうこう、? - 577年11月)は、中国北斉皇族。広寧王。絵画の才能で知られた。高澄の次男[1][2][3]。母は王氏[4][5][6]

経歴[編集]

天保6年(555年)3月、広寧王に封ぜられた[7][8][9]。後に司州をつとめた[1][2][3]天統4年(568年)3月に尚書令となり、10月に録尚書事となった[10][11][12]武平元年(570年)6月、司空に転じた[13][14][15]。10月、司徒となった[16][17][15]。徐州行台に転じた。武平2年(571年)11月、録尚書事となった[18][19][20]。武平3年(572年)8月、大将軍に転じた[21][22][23]。後に大司馬となった。学問は経書と史書に通じ、文章を好んだ。絵画の才能はとくに秀でていて、あるとき役所の壁に1羽の蒼い鷹を描いたところ、見る者がみな本物の鷹と勘違いするほどの出来映えであった。また「朝士図」を描き、当時もっともすぐれた絵とされた[1][24][3]

武平7年(576年)、後主が晋州で北周軍に敗れてに撤退すると、北斉の諸公が含光殿で対策を議論した。孝珩は「北周軍はわが領土に深入りしすぎております。任城王高湝幽州の兵を率いて突厥の領土に入らせ、并州に向かうと宣伝しましょう。独孤永業には洛州の兵を潼関に向かわせ、長安に向かうと宣伝しましょう。わたくしめは京畿の兵を率いて滏口に出て、迎え撃つ態勢を取ります。敵は南北にわが軍があると聞けば、逃げ散りましょう」と進言した。しかし後主はかれの進言を用いなかった[1][25][26]

承光元年(577年)1月、幼主が即位すると、孝珩は太宰となった。呼延族・莫多婁敬顕・尉相願らとともに1月5日を期して起兵の計画を立てた。孝珩が千秋門で高阿那肱を斬り、尉相願が宮中で禁兵を率いて呼応し、呼延族と莫多婁敬顕が遊豫園から兵を率いて出る計画であった。しかし高阿那肱が別宅から近道を通って宮中に入ったため、計画は失敗した[1][25][26]

そこで孝珩は北周の軍を迎え撃つ名目で出兵を願い出た。高阿那肱と韓鳳は乱を恐れて、孝珩を滄州刺史として出向させた。孝珩が滄州に到着すると、5000人を率いて任城王高湝と信都で合流した。北周の斉王宇文憲が侵攻してくると、孝珩と高湝の兵の士気は低く、まともに戦うこともできずに敗北した。孝珩は「高阿那肱の小人めのために、わが道は窮まったかな」と嘆き怒った。北周の乞扶令和が矛で孝珩を刺して落馬させると、奴の白沢が孝珩の身体を受け止めたが、孝珩は数カ所の傷を負い、捕虜とされた[27][25][26]

宇文憲が孝珩に北斉の亡国の理由を訊ねると、孝珩は自ら国難について涙を流しながら抑揚をつけて語った。宇文憲は態度を改めて、自ら孝珩の傷を洗って薬を塗ってやり、厚遇した。孝珩は「李穆叔が斉氏28年と言ったことがあったが、いま実現した。神武皇帝(高歓)以外、わたしの父や兄弟たちのひとりとして40歳を越える者がなかったのは、天命である。後主に定見はなく、宰相は頼りにならず、兵権を握ることもできなかった」とひとり嘆いた[28][25][26]

長安に到着すると、開府儀同三司・県侯の位を受けた[28][25][26]。北周の武帝が雲陽に幸したとき、北斉の君臣たちと宴を催して、自らは胡琵琶を弾き、孝珩に笛を吹くよう命じた。孝珩は「亡国の音楽はお聴かせするに足りません」と断った。武帝がなお強く伴奏を命じると、孝珩は笛を取り上げて口にもっていき、涙を流して嗚咽したので、武帝は強いるのをやめた。その年の10月、病が重篤になったので、死後に山東に葬るよう願い出て、許可された。間もなく死去し、遺体はに葬られた[29][30][31]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 氣賀澤 2021, p. 172.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 144.
  3. ^ a b c 北史 1974, p. 1876.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 170.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 143.
  6. ^ 北史 1974, p. 1875.
  7. ^ 氣賀澤 2021, p. 88.
  8. ^ 北斉書 1972, p. 60.
  9. ^ 北史 1974, p. 252.
  10. ^ 氣賀澤 2021, p. 128.
  11. ^ 北斉書 1972, p. 101.
  12. ^ 北史 1974, p. 290.
  13. ^ 氣賀澤 2021, p. 130.
  14. ^ 北斉書 1972, p. 103.
  15. ^ a b 北史 1974, p. 292.
  16. ^ 氣賀澤 2021, p. 131.
  17. ^ 北斉書 1972, p. 104.
  18. ^ 氣賀澤 2021, p. 132.
  19. ^ 北斉書 1972, p. 105.
  20. ^ 北史 1974, p. 293.
  21. ^ 氣賀澤 2021, p. 133.
  22. ^ 北斉書 1972, p. 106.
  23. ^ 北史 1974, p. 294.
  24. ^ 北斉書 1972, pp. 144–145.
  25. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 145.
  26. ^ a b c d e 北史 1974, p. 1877.
  27. ^ 氣賀澤 2021, pp. 172–173.
  28. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 173.
  29. ^ 氣賀澤 2021, pp. 173–174.
  30. ^ 北斉書 1972, pp. 145–146.
  31. ^ 北史 1974, p. 1878.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4