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青砥武平治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青砥武平治
青砥武平治像
(新潟県村上市鮭公園)
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年(1713年)
死没 天明8年4月26日(1788年5月31日)[1]
別名 綱義
主君 内藤信興→信旭→信凭
藩 越後村上藩士
氏族 金沢氏→青砥氏
父母 父:金沢儀左衛門、養父:青砥治兵衛
兄弟 男子、武平治
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青砥 武平治(あおと ぶへいじ)は、江戸時代中期の武士。越後国村上藩士。藩の郷村(さとむら)役として漁業を含む民生を担当し、サケの回帰性を利用した増殖方法である「種川の制」を創設したことで知られる[2]。

経歴

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正徳3年(1713年)、村上藩士・金沢儀左衛門の二男として越後国岩船郡村上町に生まれる。諱は綱義。幼少時に青砥治兵衛の養子となったため、青砥姓となった。「三両二人扶持(さんりょうににんぶち)」の小身だったが、明和3年(1766年)、54歳の時に当時5万余石の村上藩としては異例と思える70石の「石取り侍(こくとりさむらい)」に昇格した。

天明8年(1788年)、死去。享年76。

種川の制

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サケは当時の村上藩にとって、藩政を支える重要な資源であったが、乱獲により枯渇寸前で、1720年頃には漁獲量がゼロに近づいていた。武平治は、サケが産まれた川に帰って産卵する母川回帰の習性を発見し、遡上する三面川を3つに分流させ、うち1つでサケを保護して増やすことを着想した[2]。川の産卵に適した場所に蔦や柴で柵を造り、ここでサケの遡上を阻止して産卵させる「種川(たねがわ)の制」である。種川は宝暦13年(1763年)から武平治没後の寛政6年(1794年)までのおよそ30年にわたって拡張され、制の導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1,000両を超えるまでに至った。このため青砥は、世界で最初にサケの自然孵化増殖に成功した人物、と評されることがある。

種川の制は後に文化3年(1806年)には出羽国庄内藩が月光川水系の滝淵川と牛渡川で行い、明治になってからは北海道の石狩川などでも取り入れられた。現代の用語では「自然孵化増殖」であり、サケを捕獲して人工授精させる「人工孵化増殖」が明治に普及するまでの約100年間、日本のサケ増殖の主流であった[2]。

出典

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  1. ↑ 『図解にいがた歴史散歩村上・岩船』新潟日報事業社出版部、1983年、p.75。
  2. 1 2 3 奥村芳人:新潟・村上、藩士が守ったサケ文化◇「自然ふ化増殖」を導入した侍の慧眼◇『日本経済新聞』朝刊2019年7月4日(文化面)2019年7月14日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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