長藪城

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長藪城(ながやぶじょう)は、和歌山県橋本市細川と慶賀野にまたがる城跡。現在の城山台に位置する。出城、西の城、東の城の3つにより構成される。

影響[編集]

出城、西の城、東の城を、併せて城山と呼ぶことから、その周辺の地区を城山台と呼ぶようになった。

概要[編集]

紀伊続風土記』によると、楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子・義春が、文明年中(1469 - 1487年)に紀伊国伊都郡に入り、長藪城を築いたという[1]。義春は紀伊守護畠山政長に仕え、谷内郷(橋本川流域地区[2])13か村、一万石を支配し、義春の子・義信は谷内郷と河内国の2か村を合わせ、15か村を領した[3]

永禄元年(1558年)、義信の子・義則三好長慶家臣・松永久秀に攻められて城を明け渡すが[注釈 1]、永禄3年(1560年)、義則の子・義次が松永氏から城を奪還した[1]

畠山氏の没落後は織田信長に従ったが、天正15年(1587年)、義次の子・義清豊臣秀吉に逆らって討死し、長藪城は落城したとされる[1]。また、秀吉でなく織田信長により攻め落とされたとも伝えられる[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 永禄元年(1558年)のこの戦いは三好長慶の河内介入や松永久秀の大和侵入と連動したものと考えられるが、それらが永禄2年(1559年)に始まったことからするとその時期には疑問が残る[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 仁井田ほか 1910, pp. 74, 76.
  2. ^ 仁井田ほか 1910, p. 55.
  3. ^ 仁井田ほか 1910, p. 74.
  4. ^ 鈴木眞哉 「長藪城の戦い〔第一次〕」、戦国合戦史研究会編 『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』 新人物往来社、1989年、293–294頁。ISBN 4-404-01595-X 

参考文献[編集]