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金沢種次郎

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金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16日(慶応2年3月2日[1][2][3])- 1925年大正14年)10月18日[4])は、明治から大正期の実業家政治家衆議院議員。旧姓・伊沢。

経歴

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阿波国板野郡中喜来浦(徳島県板野郡松茂村[1][3]字中喜来[5][6]を経て現松茂町中喜来)で、伊沢壮太郎の三男として生まれる[1][2][3]。小学校卒業後、徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)に進んだ[5]。私塾で漢学も修めた[1][5]。1886年(明治19年)大阪に出て先代・金沢仁兵衛と出会い、その勧めで同家の肥料商に従事[1][3]。1887年(明治20年)徴兵され衛生部員として広島衛戍病院、野砲兵第5連隊(広島)で勤務し、1889年(明治22年)帰休兵となり除隊した[1][3]。その後上京して、1892年(明治25年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)で英法及経済財政学を修めて卒業し[1][3]、さらに同年8月、明治法律学校(現明治大学)の三カ年全課程試験に合格し仏蘭西派法律及政治科を卒業した[1][3][4][6]

1893年(明治26年)大阪露油合資会社に入社し、長崎支店支配人に就任[1][3][5]。1894年(明治27年)7月、先代・金沢仁兵衛の養子となり[1][2][3]、同家の家業に従事し1900年(明治33年)9月に分家した[1][2][3]。大阪共立銀行取締役、北浜銀行取締役、平野紡績取締役、大阪生命保険取締役、日本冷蔵取締役、日清生命保険取締役、日本火災保険監査役、大阪セメント監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6]

政界では、大阪市会議員を務めた[1][2][3][4]。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に大阪府大阪市から無所属で出馬して当選し[5][7]、その後公友倶楽部公正会に所属し衆議院議員に1期在任した[4][5][6]。この間、衆議院懲罰委員などを務めた[5]。その後、1920年(大正9年)5月、第14回総選挙に大阪府第2区から無所属で立候補したが次点で落選した[8]

親族

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  • 妻 金沢くに(養父・先代金沢仁兵衛の娘)[1]
  • 養弟 金沢仁兵衛(実業家、養父・先代金沢仁兵衛長男、妻くに弟)[9]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『大阪現代人名辞書』355頁。
  2. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』か87頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『大正人名辞典 第3版』1160頁。
  4. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』179頁。
  5. ^ a b c d e f g h 『現代日本の政治家』公友倶楽部38-39頁。
  6. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』131頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』44頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』5頁。
  9. ^ 『大阪現代人名辞書』352頁。

参考文献

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  • 『大阪現代人名辞書』文明社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。