鄭小同

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鄭 小同(てい しょうどう、建安元年(196年)? - 没年不詳)は、中国三国時代に仕えた儒学者子真[1]。祖父は鄭玄。父は鄭益[2]

経歴[編集]

父は、後漢末期に孔融に仕えたが黄巾の残党に殺害された。鄭小同は父の遺腹の子で、丁卯の日に生まれた。祖父は丁卯の年に生まれ、また手相がよく似ていたので、孫に「小同」と名付けた。

魏が成立した後、華歆曹丕(文帝)に上奏して「先賢を顕彰するため、その子孫を召し出すべきです」と意見した。祖父が「儒宗」と呼ばれる高名な儒学者だったので、鄭小同は召し出され郎中に任じられた。この時30歳であった[3]

後に司馬師曹芳(斉王)の廃位を行なった時、廃位を要求する上奏の中に、鄭小同は名を連ねている。

曹芳に代わって曹髦(高貴郷公)が帝位に即くと、正元2年(255年)に司空の鄭沖らとともに『尚書』の講義を行なった。 甘露3年(258年)、代の三老五更の故事を元に、鄭小同は五更に任じられた。

ある日、鄭小同が司馬昭の家を訪問した時、司馬昭は密書をしたためていた。まだ、封をしないままで用を足していたため、用を済ませ鄭小同の来訪に気付いた司馬昭は「卿は吾が手紙を読んだか」と聞いた。鄭小同が読んでいない旨を答えたが、司馬昭はなおも疑い、後に彼を毒殺してしまった[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『三國志集解·高貴鄉公髦紀』に引く『真誥』協昌期にその記述がある。「鄭子真は則ち康成の孫なり。両脚を患い積年授けず、其の晚に針灸を用い,兼ねて曲折祝法を行い、百日にして都(すべ)て除けり。」この記述から集解の筆者盧弼は「鄭玄の孫は一人しかいないので、子真とは即ち小同の字であろう。」といっている。
  2. ^ 『鄭玄別伝』
  3. ^ a b 『魏氏春秋』