逸見稔
へんみ みのる 逸見 稔 | |
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生誕 | 1933年4月1日 神奈川県 |
死没 | 1995年12月9日(62歳没) |
死因 | 心筋梗塞 |
住居 | 神奈川県横浜市南区弘明寺町255 |
国籍 | ![]() |
出身校 | 慶應義塾大学法学部 |
職業 | 実業家、テレビプロデューサー |
テレビ番組 | ナショナル劇場 |
肩書き | オフィス・ヘンミ代表取締役社長 |
任期 | 1980年 - 1995年 |
後任者 | 逸見勉 |
配偶者 | 逸見敦子(妻) |
逸見 稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年12月9日)は、日本のテレビプロデューサー、オフィス・ヘンミ創業者。神奈川県出身。
来歴[編集]
慶應義塾大学法学部を卒業すると同時に松下電器産業に入社して、東京宣伝部に配属される。初仕事はCMソング「明るいナショナル」の担当。やがてドラマを任されることとなり、スポンサー側プロデューサーという立場の「クライアントプロデューサー」としてテレビ番組作りに参加し、青春ドラマのはしり『青年の樹』、ホームドラマのはしり『七人の孫』(森繁久彌主演)、クイズ番組のはしり『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)等を制作した。
1966年に開始した、NETテレビ(現・テレビ朝日)のナショナルゴールデン劇場で、時代劇、サスペンス、現代劇、フルーツ・シリーズ等ジャンルにとらわれない多数の作品を制作し、『だいこんの花』が大ヒットを飛ばした。その傍ら1969年にTBSのナショナル劇場にて『水戸黄門』をスタート、その後同放送枠にて立て続けに『大岡越前』、『江戸を斬る』等を企画制作、いずれも大ヒットしシリーズ化された。
映像プロデューサーとしては、逸見を中心とした創作集団「葉村彰子」を結成し、高名な脚本家や映画監督を起用して視聴率の高いドラマ作りに寄与した。
ドラマ作りにおいては「プロデューサーには編集権がある」というスタンスで、脚本改稿、シーンの撮り直しや編集のやり直しを納得がいくまで要求した。「子供からお年寄りまで誰もがわかり易く楽しく見ることができる」という視聴率戦略からのものだった。
1980年、宣伝事業部長を最後に松下電器から独立し、制作プロダクション「オフィス・ヘンミ」を設立。テレビ番組(特にドラマ)、CMの企画・製作に携わった。
1995年12月9日午前8時48分、心筋梗塞の為死去62歳没[1]。
数々の役者をスターにのし上げ「テレビ界の名伯楽」とも呼ばれていた。逸見の葬儀委員長を務めた森繁久彌は弔辞で「あなたのもとで沢山の人が育ちました。私もその一人です。」と語りかけた。逸見が作った人脈の広さからオフィス・ヘンミは加山雄三等のタレントのディナーショーからドラマ制作まで手がけるプロダクションとして知られている。
家族[編集]
著書[編集]
- 『黄門様はテレビ好き』近代映画社、1993年11月。ISBN 4764817276