連合軍軍政期 (オーストリア)
オーストリアの連合軍軍政期(れんごうぐんせいき)は、第二次世界大戦直後から第二共和国(現在のオーストリア共和国)成立までの、連合国による軍政の下に置かれた期間である。
概要
1938年、オーストリア(第一共和国)は併合(アンシュルス)され、ナチス・ドイツの一部になった。1943年10月30日のモスクワ宣言で連合国により併合の無効が宣言され、オーストリアを元の状態に復帰させることが決定した。
カール・レンナーは1945年4月遅くに臨時政府を形成し、オーストリアはドイツではないと宣言した。終戦後、この臨時政府は素早く連合国に承認されたが、オーストリアは連合国の列強4ヶ国によって分割占領された。ソ連占領地区により取り囲まれていた首都ウィーンは、その重要性から4ヶ国の分割統治とされた。1955年、オーストリアにおける軍政は条約が結ばれたことにより終了、主権を回復した。
占領
1945年4月13日、赤軍によるウィーン攻勢によってウィーンは占領された。その2週間後、西側連合軍はオーストリアに到着した。1945年4月27日 (ナチス・ドイツは5月8日に降伏)、オーストリアはナチス・ドイツから独立を宣言し、第二共和国は成立した。しかし、ポツダム会談の決定により、オーストリア国土とウィーンは連合国により4つの占領区域に分けられ、軍政を受けることとなった。
- ソ連占領区域:ブルゲンラント州、ニーダーエスターライヒ州、オーバーエスターライヒ州のうち、ドナウ川北部、エンス川東部地区、司令部はバーデン・バイ・ウィーン
- アメリカ占領区域:ドナウ川南部エンス川西部のオーバーエスターライヒ州、ザルツブルク州、ザルツカンマーグートのシュティリアン
- イギリス占領区域:ケルンテン州、チロル州のリエンツ郡、シュタイアーマルク州、シュティリアンを除くザルツカンマーグート
- フランス占領区域:チロル州、フォアアールベルク州
なお、ウィーンにおいては1945年9月1日に連合国で占領区域が合意され、ベルリン同様に分割占領された。
歴史
オーストリアは独立宣言を行ったが、その統治方法は未知数であった。しかし、ソ連が認めたため、カール・レンナー(元第一共和国初代首相)がオーストリアの臨時首相(1945年の末までの指名)に着任し、暫定政府は4月29日にウィーンで始動した。
その後、戦後初の議会選挙が1945年11月25日に行われ、議会での投票の結果、レンナーは第二共和国における初代連邦大統領に選出された。1955年5月15日に、オーストリアは条約を署名、7月27日に制定され、正式にオーストリアは独立、主権回復を成し遂げた。連合軍は10月25日に残存部隊が出国した。
その翌日の10月26日、オーストリアは永世中立国宣言を行なった。 このことにより10月26日はオーストリアの祝祭日に制定されている。