ブレトン・ウッズ協定

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連合国通貨金融会議から転送)
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ブレトン・ウッズのランドマーク、マウント・ワシントン・ホテル。ブレトン・ウッズ協定はここで締結された。

ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、英語: Bretton Woods Agreements)とは、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35USドル金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年ニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことをブレトン・ウッズ体制という。

概要[編集]

展開[編集]

国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。 この協定が出来た理由は大きく分けて以下の2つである。

上記2つの理由のため、具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発などを行い、自由で多角的な世界貿易体制をつくるために為替相場の安定が計られた。IMFについては、イギリスケインズ案とアメリカハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、米ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。

この固定相場制のもとで、日本円はGHQ統治体制初期の輸出・輸入為替レートが異なる複数レートから、占領終了(1952年4月28日)後の日本のIMFおよび世銀へ加盟の翌年、1米ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。

これは、円外国為替政策に関する特別使節団(ヤング使節団)の提案する1米ドル=330円レート案(ヤングレポート 1948年6月)を元に、その後の日本の物価上昇を反映しつつも、英ポンド約30%切り下げ及びその連鎖切り下げを反映することなく、定められた1米ドル=360円レート制(1949年4月25日施行)が、そのままIMF平価申請において採用されたものである。

この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本1950年代から1970年代初めにかけて、高度経済成長を実現し「東洋奇跡」とよばれた。

この体制の問題点[編集]

このブレトン・ウッズ体制は、確かに世界的な金融市場の安定に寄与する側面はあったが、対外為替が金1オンス=35USドルという固定相場制であり、基準を設けたことで安定獲得には寄与したものの、その後の1972年に起こったニクソンショックに代表される「お金とは何かという本質を見えなくさせてしまう問題」が起こった。

そもそも、どの国家も内国に限れば、自国産業を守り発展させるため、技術開発による生産性向上によるGDP(国内総生産)拡大と、福祉向上や教育などのために、自国通貨建ての国債を発行し、需要と供給を喚起することができ、それは金兌換とは無関係なものなのだが、それすらも金兌換が必要だと思い込ませてしまう誤解が、世界中に浸透する結果となった。

結末[編集]

しかしその後、アメリカ合衆国と世界の諸国の経済や貿易や財政の規模が著しく増大し、金の産出量や保有量が、経済や貿易や財政の規模の増大に対応することが困難になった。これこそが金を担保にしないと貨幣を発行出来ないと思い込ませてしまうことで起こる弊害である。

この弊害で経済学自体も、古代ギリシャ時代から続く誤解を引きずってしまい、政府の負債(自国通貨建て国債)と国の借金(他国からの借入れ負債)を混同している問題が起こっている。

1971年8月15日のニクソン・ショックにより、アメリカ合衆国連邦政府は突然ドルと金の交換を停止し、ブレトン・ウッズ体制は終了した。

その後、1971年12月18日のスミソニアン協定で、ブレトン・ウッズ体制の骨格を維持しようとするも、1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は完全に崩壊した。

学者の見解[編集]

経済学者ジョセフ・E・スティグリッツは「第二次世界大戦後から1973年まで続いたブレトン・ウッズ体制の下では固定相場制だったので、現在(2013年)のグローバル経済よりも安定していたことは確かであり、最近のアメリカの経済学者の中からブレトン・ウッズ体制を再評価する声も出ている。しかし、ブレトン・ウッズ体制は、各国の生産性にばらつきが出てきたときに、対応できなくなってしまった。その結果、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行した」と指摘している[2]

脚注[編集]

  1. ^ 図解雑学 通貨と経済』p219 ナツメ社 野村茂治・著 2005年
  2. ^ ジョセフ・E・スティグリッツkotoba(コトバ) 2013年6月号

関連項目[編集]