谷地城

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谷地城
山形県
城郭構造 連郭式平城
築城主 中条長昌白鳥長久
築城年 弘治年間から天正10年にかけて
主な城主 中条氏白鳥氏最上氏
廃城年 元和8年(1622年
遺構 土塁・水堀跡
指定文化財 町指定史跡
位置 北緯38度25分36.8秒
東経140度18分59.4秒
地図
谷地城の位置(山形県内)
谷地城
谷地城

谷地城(やちじょう)は、出羽国村山郡谷地(山形県西村山郡河北町)にあった日本の城である。町指定史跡[1]

概要[編集]

歴史[編集]

谷地城の創建は弘治年間(1555年1558年)中条長昌によって行われたとされる。

中条氏(ちゅうじょうし)は武蔵七党横山党の一族であり、鎌倉幕府の成立に貢献した中条家長を祖とする。評定衆尾張守護を務め出羽国小田島荘の地頭職を得る[2]。小田島荘に入った中条氏庶流は小田島氏を名乗り[3]南北朝時代を迎える。南朝に与した小田島氏は結城氏の配下に入って小田島荘の代官となったが、結城氏が北朝に寝返ると程なく叛旗を翻し、小田島荘を掌握した[4]。しかし、北朝の斯波兼頼が出羽に下向し、小田島氏は領地の大半を捨て谷地へ閉塞した[5]

応永3年(1396年)、留守(藤原)家継より中条備前守が上田鍋(河北町弥勒寺)を与えられる[6]。応永13年(1406年)にも先例により小見郷(河北町大字田井から字道海にかけて)、小堤郷(河北町溝延の北部から谷地の南部)が安堵されている[7]。ただし、北寒河江庄の吉田・堀口・三曹司・両所・窪目については鎌倉円覚寺領として、山形に拠る斯波氏(最上氏)の支配下にあった[8]

長国-長政-長衡-長胤-長昌と北寒河江荘を支配するが長昌で断絶する。その後永禄元亀(1558年~1573年)頃には谷地北方(村山市白鳥)の国人領主白鳥氏が勢力を扶植し、天正10年(1582年)ごろまで白鳥長久が城主として城郭を整備した[9]。天正12年(1584年)城主長久が最上義光に誘殺されると最上氏の攻撃を受けて落城、最上氏配下斎藤光則(伊予守)が在城した[10]

慶長5年(1600年慶長出羽合戦では庄内から侵攻した上杉軍の攻撃を受け9月18日までに落城、下秀久の支配を受ける。10月1日関ヶ原の敗報に触れた本隊が撤退するも下秀久は籠城し、7日(11日とも)間の籠城戦の末降伏した[11]

その後最上氏蔵入地として支配されたが、元和8年(1622年)最上氏の改易により廃城となった。

構造[編集]

三重の堀に囲まれた輪郭式平城である。本丸の規模は南北260m東西120mで土塁で二分される。本丸外側は基底部幅14mの土塁で囲まれる。一の堀は最大幅50mであるがおおよそ30m幅である。二の丸は南北450~500m東西350mの長方形をなす。一の堀沿いに街路をとって屋敷を配し、二の堀沿いに土塁を積んだ。二の堀は最大幅50m最小幅10mである。三の丸は旧谷地本郷をほぼすべて囲み、水堀跡の低地を残す[12]

歴代城主[編集]

所在地[編集]

  • 谷地城本丸跡(三社宮)
山形県西村山郡河北町谷地乙

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「指定文化財一覧」河北町公式HP
  2. ^ 中条義季、「封内風土記」刈田郡宮邑疱瘡神社条『角川日本地名大辞典(旧地名編)』小田島荘
  3. ^ 「吾妻鏡」建長3年8月15日条。小田嶋五郎左衛門尉義春。
  4. ^ 『角川日本地名大辞典(旧地名編)』小田島荘
  5. ^ 系図によれば長国のころ谷地に入ったという
  6. ^ 『慈眼寺文書』県史15上、「角川日本地名大辞典(旧地名編)」河北町上田鍋
  7. ^ 『慈眼寺文書』県史15上、「藤原家継安堵状」
  8. ^ 『円覚寺文書』関東公方(足利持氏)御判御教書
  9. ^ 『寒河江市史 上巻』p.763
  10. ^ 『寒河江市史 上巻』p.766
  11. ^ 『寒河江市史 上巻』p.948
  12. ^ 『山形県中世城館調査報告書 第2集(村山地区)』p.120

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]