西野文太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日1865年10月28日) - 1889年明治22年)2月11日)は、日本国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。

経歴[編集]

長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった[1]1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。なお、玉井もドイツ志向が強い人物であり、西野と思想は異にしていたが、特にそれで衝突するようなことはなく二人は親友であった。

1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた[1])という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。

暗殺の当日に所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。

1889年(明治22年)2月25日付の『東京日日新聞』によれば、西野に対して無名で香典を贈る者や、葬送の際に霊前で祭文を読む者、西野の経歴や逸事を調べてまとめた物を販売し、その代金を西野の将来の祭祀料にしようと計画した者などがおり、民衆からはある程度人気を集めたとされる[2]

参考文献[編集]

  • 岡田常三郎『刺客西野文太郎の伝』、書籍行商社、1889年
  • 湯郷将和『キサク・タマイの冒険』、新人物往来社、1989年、28-55頁

脚注[編集]

  1. ^ a b 本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」長谷川勝政、本田増次郎Web記念館
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)312頁

外部リンク[編集]