藤原頼衡

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藤原頼衡
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 承安4年(1174年)前後?[1]
死没 文治5年2月15日1189年3月3日
別名 錦戸太郎、頼平、浪岡右兵衛太夫頼衡?、浪岡右京大夫頼衡?
氏族 奥州藤原氏
父母 父:藤原秀衡、母:不詳
兄弟 国衡泰衡忠衡高衡通衡頼衡、娘?[2]
不詳[3]
子供1人?(伝承)[4]

藤原 頼衡(ふじわら の よりひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏武将奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の六男。秀衡の6人の息子の中では末男にあたる。五兄・通衡と同様に、四人の兄達(国衡泰衡忠衡高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。代わりに伝承が多く、一部では非実在説が唱えられている(後述)。

概略[編集]

吾妻鏡』には五兄の通衡と共に名前が見えず、また、『玉葉』、『愚管抄』、『明月記』、『六代勝事記』にも頼衡に関する記述は無く、史料に乏しいため、詳細は不明。わずかに頼衡の名が見える『尊卑分脈』には、文治5年(1189年)2月15日に次兄の泰衡によって殺害されたと記されている[5]。この4ヶ月後に三兄の忠衡と五兄の通衡も父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため討たれているが、それと同じ理由かは不明。一般的には後述の伝承の影響もあり、父の遺言と源義経を支持してそれと通じ、泰衡によって誅されたと信じられている。これが事実ならば、忠衡と通衡が誅された理由と同じになる。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡が23歳で死亡したことを考えると、五兄の通衡と同様にそれより下の年齢であったと推測できる。また、後述の伝承により、死去時の年齢は16歳前後ともされる。

頼衡の実在性について[編集]

前述の通り、頼衡に関する史料には実在性を疑問視する記述も存在し、実在説と非実在説がある。

平泉志の記述[編集]

明治初期に著された『平泉志』では秀衡の息子たちについて、「五男あり嫡男(ちゃくなん)西木戸太郎國衡二男泉冠者泰衡(一説に伊達次郎といふへし)三男泉三郎忠衡、四男本吉冠者隆衡、五男出羽冠者通衡(一説に仙北五郎利衡といへり。按に五男の事東鑑に見えず平泉實記に挙げたる系國に出羽押領使とあり又大系圖に通衡の弟に錦戸太郎頼衡あるは信ずるに足らず」と記されて、秀衡の息子は5名とされており、頼衡の実在は否定されている。

義経記[編集]

一方、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている、源義経とその主従を中心に書いた軍記物語の『義経記』(現代で言えば、小説的要素が強い)には、義経を保護した秀衡の死の床を囲む息子達が挿画で描かれていること、「義経を大将として、頼朝の襲撃に備えよ」という秀衡の遺言を呼び寄せた6人の息子達に言い聞かせたという場面から、少なくとも『義経記』が成立した時点では、秀衡には6人の息子達がいること、加えて、六男にして末子の頼衡の存在が認識されていたと推察される。

通称(別名)について[編集]

尊卑分脈』の記述によれば頼衡の通称は「錦戸太郎」であるが、この通称は史料によっては読みが同じである長兄の国衡(通称は西木戸太郎)に冠せられていることも多い。

基盤地域について[編集]

頼衡の5人の兄達は、通称(別名)から基盤地域を持っていたこと、或いは地域に何らかの関わりがあったのではないかという推測が可能であるが、頼衡に関する記録や伝承の中からはそれらを読み取ることができない。通称の読みが同じである長兄・国衡との関連や、後述の伝承から文治5年(1189年)時点で16歳前後だったとすると、まだ、基盤となる地域を所有していなかったとも考えられるが、史料が無く、どの推測も確証に欠ける。

伝承[編集]

  • 出羽国置賜郡米沢の錦戸薬師堂の由来に頼衡が輿に奉安し、鳥越を越えて守本尊の薬師像を当地に運んだ伝承が残る。なお頼衡の長兄・国衡(西木戸太郎国衡)が阿津賀志山の戦いで鳥取越を奪われて源頼朝の軍に敗れ、僧に守本尊の薬師像を託して僧が当地に庵を結んだという話もある。国衡当人は大関山を越えて出羽に逃れる途中で和田義盛と戦い、討たれたという。これらの話から、国衡と頼衡は同一人物で頼衡の伝は国衡のものから派生したとも思える。また、次兄の泰衡も秋田で討たれ、その遺体を埋葬した場所に錦神社が建ち、夫人が亡くなった場所に西木戸神社が建つという。
  • 岩手県紫波町の小屋敷地内の稲荷街道の道端には錦戸太郎頼衡の墓と伝えられている自然石の角柱がある。その頂部は斜に切断されているが、これについて次のような伝承が伝わっている。頼衡は父秀衡の死後、義経に通じたことから次兄の泰衡との間に不和が生じた。身の危険を感じた頼衡は密かに平泉を脱出して北方に逃走したが、現在の紫波町と雫石町の境にある東根山の山麓で追っ手に捕らえられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳前後だったとされる。これを憐れんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓であるという。ところが、これを聞いた平泉の泰衡は、烈火のように怒って直ちに墓石を取りはらうように命じた。里人たちは、止む無くそれを取り覗いて近くのやぶへ捨ててしまった。それから間もないある晩のこと、当時奥羽きっての強力者として有名であった由利八郎がこの地に通りかかったが、かの墓石を捨てたあたりまでくると、草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんできた。八郎は「狐狸のしわざに相違ない」と思いながら、腰の大刀を抜いて激しくこれを斬りつけた。その途端「カチン」という音がしたと思うと、光り物はゆらゆらと揺れながら飛び出してきた。八郎はその後を追いかけたが錦戸太郎の墓までくると消えてなくなった。気がつくと八郎の体は汗で満たされていた。そして急に疲れが襲って来た。翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると、取り除いたはずの墓石がもとの通りに立っていたのである。そして、よく見ると頂部が斜に切断されていた。里人たちは「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」と噂したという。[6]
  • 別の伝承として、『応仁武鑑』の「浪岡記」によれば、青森県青森市浪岡町(津軽の外ケ浜)には、頼衡が次兄の泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京大夫と名乗ってこの地を支配、浪岡氏(行岡氏)の祖となったというものがある。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、その浪岡氏に浪岡秀種(行岡右兵衛大夫秀種)という人物がおり、伝承では秀種は頼衡の曾孫とされる。秀種は北畠顕家に仕え、秀種の娘である頼子(萩の局)は顕家の妻となり、北畠顕成、女子(安東貞季妻)、北畠師顕らの母になったという。顕家の死後、顕成は外祖父右兵衛大夫を頼り、のちに所領を譲られたことが浪岡北畠氏の始まりとする説もある。この伝承を信用するならば、頼衡は妻帯者で子供が1人いたことになる。

関連項目[編集]

  • 浪岡氏 - 伝承では頼衡の後裔とされる氏族。

脚注[編集]

  1. ^ 三兄である忠衡仁安2年(1167年)生まれであるため、四兄の高衡、五兄の通衡と同様にそれ以降の誕生と推測される。また、後述の伝承の一つによれば16歳前後で死去したことになっており、これを信用して生誕年を推測するならば、承安4年(1174年)前後もしくは嘉応3年、承安元年(1171年)から承安5年、安元元年(1175年)の間となる。
  2. ^ 『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが、系図に娘が記されていないとなる。
  3. ^ 後述する伝承の1つに、浪岡氏の祖になったというものがあり、頼衡の曾孫に浪岡秀種がいるとされる。この伝承を信用するならば、頼衡と関係を持った女性がいたことになる。
  4. ^ 後述する伝承の1つに、浪岡氏の祖になったというものがあり、頼衡の曾孫に浪岡秀種がいるとされる。
  5. ^ 天御中主尊に始まる『藤原氏系図』(個人蔵・江戸初期 京都本)の頼衡の欄には、「文治五二十五泰平誅之」とある。
  6. ^  「ふるさと物語」【75】〈昭和45年8月10日発行「広報しわ」(第181)〉 、○『錦戸太郎の墓』 昔話と伝説(6)