荒木田末寿

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荒木田 末寿(あらきだ すえほぎ、1764年明和元年)- 1828年9月24日文政11年8月16日))は、江戸時代中期から後期の国学者神職である。本姓は菊谷(菊屋とも)後に益谷。通称は玄蕃、大学。号は楽斎等。

経歴・人物[編集]

菊谷氏の三男として伊勢度会に生まれ、益谷家の養子となる[1]1775年安永4年)に伊勢神宮の内宮の禰宜となり、正六位に叙せられた。

1792年寛政2年)に本居宣長の門人となり、国学を学ぶが師匠の説を批判した著書を執筆、刊行したため、破門され1818年文政元年)に平田篤胤の門人となった。その後、父が刊行した和歌集を編纂したり、伊勢神宮の改革や行事の研究に携わる等、神道の革新に貢献した。

主な著作物[編集]

  • 『伊勢二宮割竹弁難』- 1803年享和3年)に刊行。師匠から破門を告げられるきっかけとなった著書である。
  • 『内宮外宮弁略解』- 1794年(寛政6年)に刊行。

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 59頁。

出典[編集]