花水川

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花水川(はなみずがわ)は、神奈川県の中西部を流れる二級河川金目川の下流部における別称。

地理[編集]

丹沢山系に源を発し、大山の西側を流れ相模湾に注ぐ金目川の流路のうち、平塚市徳延付近の渋田川との合流点から相模湾に注ぐ河口までの約2.5kmの間を花水川と呼ぶ。東海道が渡っており、昔は多くの人の信仰を集めた高麗寺のあった高麗山が近くにあることや更級日記に出てくる唐が原(とうがはら)もその岸辺にあることから、それほど大きくない川ながら古くからその名前は知られていた。

現在の流域は江戸時代に河川改修されたもので、それ以前の流れとは大きく変わっている。河川改修以前に流れていた場所は平塚市側に古花水という地名が残っているものの現在は定かではない。

名称の由来[編集]

大磯町の郷土史研究家で高來神社の神主でもあった高橋 光の著書に、鎌倉時代以前は「波奈美頭可波」の字が万葉仮名としてあてられていたとあり、「美頭」は太古の人の髪型「ミズラ」のように川が曲がりくねっていたからだとしている。また、鎌倉時代、桜の名所であった高麗山に源頼朝が山桜を見物に来たが前夜の春の嵐で散ってしまい、花を見ずに帰ったことから花みず川となったという説もあるが、これは俗説である。「はなみずかわ」という音は先にあり、「花水」の文字はあとから当てられた。

治水[編集]

江戸時代以前の花水川は曲がりくねっていたため河川氾濫の絶えない川であった。そこで江戸幕府は早くからその改修を考え、慶長15年(西暦1610年)関東郡代にその命を下し新川を掘って現在の流れに改修した。その約100年後、宝永4年(1707年)11月の富士山噴火により付近一帯に20センチ近い降灰があり、それが川に流れ込んで川床が上がり再び洪水の恐れが出るようになったことから、幕府は宝永5年~6年にかけて大規模な浚渫(しゅんせつ)工事を行った。その時の古文書が地元の旧家に残されている。 幕府がこの地域を手厚く扱ったのは、洪水の被害に遭う地域に高麗寺の寺領が含まれていたことが大きかったのではないかとされる。高麗寺は8世紀に創建され、江戸時代は上野寛永寺末寺の権現様として参勤交代で高麗寺の前の東海道を大名が通るときに下へ下へという掛け声は慎んだといわれている。

自然[編集]

渋田川との合流点付近から国道1号の花水橋までの間は川辺に人が入りにくかったことから水鳥が多く集まることや、高麗山から野鳥が水を飲みに飛来することなどから知られざるバードウォッチングの名所になっている。ただし、近年は高麗大橋の工事に伴う河川改良や上流の東雲橋および玉川橋の架け替えに伴う河川敷の公園化で飛来する野鳥は減りつつある。

川岸のは、2003年3月に完成した高麗大橋と上流の平塚大橋間の西岸の桜が美しい。高麗大橋東側の辺りから高麗山の山桜と花水川の桜を一望できる。

橋梁[編集]

金目川#橋梁の項目のうち平塚大橋以下を参照。

支流[編集]

短い距離ではあるが、西側から河内川(こうちがわ)、東側から小桜川(県道平塚秦野線の下の暗渠)が流れ込んでおり、両方とも農業用の水路となっている。 河内川は近年上流の取水口を常時開放して水流の浄化を図ると共に、旭小学校の学童らによるアジサイの植栽で流域の美化が進められている。