耶律突欲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

耶律 突欲(やりつ とつよく、光化2年(899年) - 清泰3年閏11月22日937年1月7日))は、契丹皇太子東丹国王。図欲とも記される。漢名は劉倍

生涯[編集]

光化2年(899年)、耶律阿保機の長男として生まれる。母は月里朶神冊元年(916年)の契丹帝国成立とともに立太子された。父の華北遠征などに従い、タングート沙陀族後唐)の李存勗らと戦う。天賛5年(926年)には同母弟の耶律堯骨らとともに渤海へ攻め入り、これを滅ぼした。契丹は渤海を改めて東丹国とし、国王に突欲を据えて「人皇王」と称して甘露の元号を用い、阿保機を「天皇帝」、月里朶を「地皇后」とすることとなった。しかし同年に阿保機が急死すると、母の月里朶と不和だった突欲は東丹国王のまま留められ、翌天顕2年(927年)弟の堯骨が皇帝位を継ぐよう月里朶から指名された(太宗)。同年、日本に対し裴使者として派遣している

兄の突欲を警戒した堯骨は、東丹国の首脳ともども突欲を天福城中国語版から南京中国語版(現在の遼陽市)へ集住させ、監視下に置いた。これを知った後唐の明宗李亶は、突欲に亡命を促した。これに応じた突欲は天顕5年 / 長興元年(930年)、山東半島登州に渡って亡命した。喜んだ明宗は、突欲を「東丹慕華」の名をもって歓待し、さらに国姓賛華の名を与え、滑州節度使に任じた。

だが、長興4年(933年)に明宗が崩御すると、後を継いだ閔帝を殺して明宗の養子の李従珂が権力を握った。李従珂の支配に反対した突欲は過去の経緯にもかかわらず、契丹の堯骨に後唐への介入を促し、堯骨もまたそれに応じて、石敬を支援して後唐を滅亡に追い込んだ。これに恨みを持った李従珂が放った刺客李彦紳中国語版により、突欲は暗殺された。

長男の世宗が即位すると、譲国皇帝号、義宗廟号を追尊された。穆宗西遼以外の遼の皇帝、モンゴル帝国の中書令であった耶律楚材はいずれも突欲の後裔である。

家族[編集]

妻妾[編集]

男子[編集]

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 野上俊静 「耶律突欲」 『東洋歴史大辞典』 下巻(縮刷復刻版) 臨川書店、1941年、835頁。ISBN 4653014728 
  • 杉山正明『疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元』講談社〈中国の歴史08〉、2005年。ISBN 4062740583