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細川春倶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川春倶
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 明応9年(1500年
官位 中務少輔
幕府 室町幕府
氏族 細川氏野州家分家(賢春流)
父母 父:細川教春
養父:細川賢春 (叔父)
兄弟 勝之政春春倶、兼子(二条政嗣正室)、女子(日野政資室)、女子
国豊尹賢高基、四郎左衛門佐[1]
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細川 春倶(ほそかわ はるとも)は、戦国時代武将細川野州家分家の当主。

生涯

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野州家第3代当主細川教春の子として生まれる。叔父(教春の弟)で分家をたてていた細川賢春(かたはる)の養嗣子としてその跡を継いだといわれる[2]

明応2年(1493年)の明応の政変以降、足利義澄を擁立する細川政元と、足利義稙を擁立する畠山尚順大内義興らとの対立という状況が生まれた。

これについて、伊予国守護河野家大内家に敵対する大友家との婚姻関係があり、文亀元年(1501年)に幕府(将軍は義澄)が大内家討伐を命じた際には、大友・河野両家にも動員がかかっている。このように一見すると河野家は親義澄・政元派にも見えるが、河野家は分家である予州家との対立も内包するなどの複雑さもまた有していた。

春倶が何時から伊予に在国していたかはわからないが、細川阿波守護家の行動などを合わせて見ていけば、その事情なども想像しうるかと思われる。

明応9年(1500年)に伊予国で死去。その事情は細川野州家の分郡の一つに新居郡があることからもうかがえるという。

晴俱の嫡男とされる国豊は後に細川高国に従って備中守護に任ぜられているが、その子である九郎二郎が永正12年(1515年)に19歳の若さで自害して家系が断絶したとされる[3]

脚注

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  1. ^ 岡田謙一「細川右馬頭尹賢小考」、阿部猛編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会企画部、2010年)
  2. ^ 出典:武将系譜辞典より[出典無効]
  3. ^ 馬部隆弘「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」(初出:天野忠幸 他編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P516.

参考文献

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  • 末柄豊「妙心寺への紫衣出世勅許をめぐって-鄧林宗棟を中心に-」『禅文化研究所紀要』28号(2006年2月)ISSN 0289-9604
  • 西尾和美「中世伊予河野氏の婚姻関係と『予陽河野家譜』-西国武士の家譜を読む-」『松山東雲女子大学人文学部紀要』6(1998年)NAID 110000549226

関連項目

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