米倉久子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米倉 久子
(よねくら ひさこ)
誕生 1889年11月6日
山梨県米倉村
死没 (1938-02-09) 1938年2月9日(48歳没)
山梨県
職業 歌人
国籍 日本の旗 日本
ジャンル 短歌
代表作 『忍冬』
配偶者 小田観螢
所属 潮音
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

米倉 久子(よねくら ひさこ、1889年明治22年〉11月6日[1] - 1938年昭和13年〉2月9日[1])は、日本歌人。夫は同じく歌人の小田観螢。結婚後の本名は小田 久子[2]。病気療養の身で、夫の手厚い看病を受けて、互いに心を通わせたことで、「現代の比翼歌人」と賞された[1]

経歴[編集]

山梨県米倉村(現・笛吹市)で誕生した[3]。1904年(明治37年)、17歳のときに作家を志した[4]。1915年(大正4年)に短歌雑誌「潮音」の創刊に参画し、創刊と共に幹部同人として活躍した[1][5]

1918年(大正7年)、小田観螢と結婚した[6]。夫の教員としての任地である北海道に移住し、二児をもうけた[1]。しかし生来より病弱の身であり、先妻の子の養育、自身の出産、北海道の厳しい気候で体を患ったことで[6]、1926年(大正15年)、子供を観螢のもとに残して山梨に帰り、療養生活を送った[7]

1930年(昭和5年)、小田観螢との合著『忍冬(ずいかずら)』を発表した[6][7]。観螢の師である太田水穂は「この夫婦の沈痛な生涯をつくづく見て、終わりまで忍ぶものの寒苦に、涙といふよりも一種の畏敬せらるねき厳粛さを感ずる」と文を寄せた[7]

1938年(昭和13年)2月、重篤に陥った。観螢が子供たちを連れて山梨へ駆けつけ、成長した子供たちと再会した[7]。しかしそれも空しく、同1938年2月9日に病死した[5]。没後には遺歌集『竹落葉』が刊行された[1]

代表歌[編集]

  • 微塵だにけがれぬ雪のなかにしてききしや鐘の久遠のひびき[4]
  • 白き雛孟宗竹の幹ごしに餅をあさりゐていつまでの世ぞ[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 20世紀日本人名事典』 下、日外アソシエーツ、2004年7月26日、2761頁。ISBN 978-4-8169-1853-7https://kotobank.jp/word/米倉%20久子-16585832024年3月5日閲覧 
  2. ^ 『現代代表女流年刊歌集』 第2輯、歌壇新報社、1937年12月5日、8頁。国立国会図書館書誌ID:000000711801 
  3. ^ a b 『北海道歴史人物事典』北海道新聞社、1993年7月21日、409頁。 NCID BN09460887 
  4. ^ a b 北海道歌人会 編『北海道短歌事典』北海道新聞社、1980年6月30日、162頁。 NCID BN01671233 
  5. ^ a b 日本人名大辞典上田正昭他監修、講談社、2001年12月6日、2047頁。ISBN 978-4-06-210800-3https://kotobank.jp/word/米倉久子-11203152024年3月5日閲覧 
  6. ^ a b c 太田青丘『太田水穂と潮音の流れ』短歌新聞社、1979年8月25日、149頁。 NCID BN00253362 
  7. ^ a b c d 弥藤邦義「郷土の歌人 観螢先生は今も心に── 〜短歌雑誌「新墾」創刊90周年特集〜」(PDF)『広報くじ』第348号、久慈市、2020年9月1日、4-5頁、全国書誌番号:010409532024年3月5日閲覧