竹村与右衛門
竹村 与右衛門(たけむら よえもん、文久元年12月29日(1862年1月28日[1][2])- 1938年(昭和13年)9月11日[1])は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。位階勲等は従六位勲三等[1]。
経歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
文久元年12月29日(1862年1月28日)、竹村与左右の長男として高知城下菜園場(現・高知市菜園場町)に生まれ、1883年(明治16年)12月に家督を相続する[1][2]。生家は豪商で屋号を木屋と称し、砂糖卸・金物・廻船業者を営んだ[1]。
居合の継承に貢献[編集]
1893年(明治26年)、無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄の親族である板垣退助が帰高し、高知市材木町の「武学館」で、長谷川英信流居合術と松嶋流棒術の由来と功績を述べ、これらの武術を後世に継承させるために、適切な師範と道場が必要であるとして、居合は谷村亀之丞自雄のもとで学んだ五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が教導役に推挙されたが、竹村は板垣退助に懇請され、菜園場の自邸の敷地の一角に道場を建設し、これら武術の振興に協力した[3]。これが起点となって、今日まで長谷川英信流居合まで流脈が途切れず保たれることになった[注釈 1]。
その他役職[編集]
土佐セメント・土佐度量衡製作各監査役、土佐商工連合会顧問などを務め、1900年(明治33年)高知市会議員に当選したのを皮切りに、所得税調査委員、市参事会員、徴兵参事会委員、破産管財人などを経て、1911年(明治44年)9月29日[4]高知県多額納税者として貴族院多額納税者議員に当選する[1][2]。1918年(大正7年)9月29日再選され[1]、1925年(大正14年)9月28日まで連続2期在任した[5]。ほか、移民代理店の経営や高陽銀行の重役などを務めた[1][6]。米騒動の直前には500円を寄付した[1]。
栄典[編集]
- 位階
- 従六位 - 昭和13年
- 勲章等
親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ この時、板垣退助より竹村に御礼として贈られた「死生亦大矣」の揮毫は、数少ない板垣退助の直筆史料で、板垣退助遺著『立国の大本』の冒頭に掲載されたほか、退助生家に建つ高野寺に複製された石碑が建てられた。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断っているが、竹村が「板垣自筆の揮毫を」と所望し、頑なに粘ったため、退助が断り切れず書いたもので、現在確実に板垣退助自筆と判明している揮毫は2点しかないが、その一つである。もう一つは、明治4年(1871年)、武田信玄第三百回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納されたが、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、この時も断り切れず依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。松本楓湖の板垣信方肖像画は、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 人事興信所 『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 人事興信所 『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。